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第02話 狭い道


遥が目を覚ましたとき、窓の外の陽射しはすでに傾いていた。陸はとっくに部屋を出ていて、室内には彼女一人だけが残されている。


彼が昨夜の一夜限りの関係について、わざわざ振り返るような時間の無駄遣いをするとは、最初から期待していなかった。十分に魅力的で、申し分のない体験だったのだから、損をした気分はまったくない。


ただ、次に顔を合わせるのが、こんなにも突然だとは思ってもみなかった。


「星野」は、静けさを売りにしているが、その分都市の喧騒からは遠く離れており、タクシーを呼ぶのも一苦労だ。遥が道端でスマートフォンを見つめると、配車アプリには信じられないほどの待ち人数が表示されていた。


そのとき、無駄のないラインの黒いセダンが彼女の前に止まった。窓が静かに下がり、高橋時生の穏やかな笑顔が現れる。


「乗っていきなよ」


遥は少し驚いた。このリゾートの御曹司とは、裕久と一緒にいた時に何度か顔を合わせた程度の、記憶の片隅にいる存在だった。


「どこまで行きませうか?」と、気軽に尋ねてくる。


「六本木までです。」


「ちょうど同じ方向ですし、一緒に行きましょう。」


高橋時生は、女性関係が華やかなことも有名だが、それが彼の印象を損なうことはなかった。遥は深く考えず、ドアを開けて車に乗り込んだ。


だが、次の瞬間、彼女の動きは止まった。


後部座席の奥で、もう一人の男が膝の上のノートパソコンに集中していた。シンプルな白シャツに黒のスラックス。無駄のないシルエットの中に、どこか近寄りがたい気品が漂っている。


陸だった。


すでに運転手が彼女の荷物をトランクに積み終えていた。逃げ場はなく、遥は仕方なく車内に収まる。ドアが閉まると同時に、あの冷たく静かなウッディな香りが車内に満ちて、彼女を包み込む。車内には妙な緊張感が流れた。彼女は窓の外に流れていく緑の山並みに視線を向け、昨夜の鮮明な記憶を振り払おうとする。


時生は何か話しかけようとしたが、バックミラー越しに陸の表情を一瞥し、すぐに口をつぐんだ。


静寂の中、携帯のバイブ音がやけに大きく響いた。遥が思わずバッグに手を伸ばすと、隣からスッと骨ばった手が伸びて、彼女より早くスマホを取った。


昨夜、その手に触れられた感覚が体に蘇り、今、無機質にスマホを操作する仕草ですら、彼女にはどこか意味深に映った。


陸はメッセージを開く。


高橋時生:【昨日6506号室でルームサービス頼んでたよな。それも急ぎで。へえ、裕久って意外とやるじゃん。】


陸の眉がわずかに動いた。


【客のプライバシーを監視してるのか?】


【いや、たまたま従業員が品を届ける時、俺が通りかかっただけさ。でも……あの時部屋の中から聞こえた声、裕久じゃなくて、お前みたいだったけど?】


スマホの光が陸のメガネに冷たく反射した。彼は無言でトーク画面を閉じる。


【?】


高橋時生は何度も追撃のメッセージを送るが、ブロックされた。


諦めきれない高橋時生は、グループチャットに情報を投下した。


高橋時生:【ビッグニュース!陸がついに氷を溶かした!?昨夜は謎の女性と一夜を共に!】


グループ内は騒然となる。陸?誰に対しても冷淡な、あの陸が?高橋が酔ってるだけじゃないの?


高橋時生はバックミラー越しに、後部座席の遥をさりげなく観察した。


彼女が裕久に連れられて初めてこの界隈に現れた時も、ちょっとした話題になったものだ。


特別に美しいわけではないが、どんなに品のある服を着ていても、隠しきれない独特の雰囲気がある。冷ややかで距離感のある猫のような、澄んだ目にどこか男心をくすぐる危うさが滲んでいる。


裕久が手に負えなかったのも、今なら納得だ。まさか陸と関わりができるとは。


スマホのバイブ音が、手のひらで止まらない。


遥は、左側から感じる鋭い視線が、実体を持っているかのように自分の横顔に重くのしかかってくるのを感じていた。


まるで原始の森で、気配を消して獲物を狙う頂点捕食者に見定められているかのようだ。いつ襲いかかってくるかわからない緊張感が続く。


思わず振り返って問い詰めたくなったその時、視界の端で陸が目を閉じ、頭をシートに預けて浅い眠りに落ちているのが見えた。


張り詰めていた神経が、ふいに緩む。……きっと気のせいだ。


どうせ車を降りれば、もう二度と会うこともない。陸のような男なら、一夜限りの関係なんていくらでもあるはずだ。


車が市内に差しかかると、高橋時生が賑やかな交差点で下車した。降り際、遥に意味深な視線を残して。


「運転手さん、すみません、この先……」


「住所は?」

突然、陸の静かな声が響いた。落ち着いたトーンで、感情は一切見えない。


「いえ、もうすぐ……」


陸が目を開け、じっとこちらを見る。わずかに眉を上げただけで、遥の言葉は喉元で途切れた。


「六本木ヒルズレジデンスです」

ほとんど反射的に、自宅の住所を口にしていた。


その瞬間、運転席と後部座席の間に仕切りが静かに上がり、完全なプライベート空間ができあがった。


遥は驚いて陸を見つめる。


彼は少しうんざりしたようにシャツの襟を緩め、色気のある喉元をあらわにした。


深い視線を向けてきて、わずかに楽しげな色を含んだ声で言う。


「怖いのか?」


「別に」

心臓が勝手に早鐘を打つ。彼の意図は全く読めない。まさか昨夜の感想でも求められるのか?


彼女の答えを聞いた陸は、低く短い笑い声を漏らす。その笑みも、無表情に近い顔に浮かぶと、どこか現実離れして見えた。


「昨夜は……」

彼はゆっくりと、低い声で続けた。

「ずいぶん大胆だったじゃないか?」

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