「昨夜のことは、大人同士の暗黙の了解だと思いました。」
遥はようやく顔を上げ、その視線は陸の眼鏡越しの深い瞳にぶつかる。
「今さら、清算するつもりじゃないでしょうね、黒沢さん?」
陸を選んだのは、裕久が絶対に手を出せない相手だから。それだけは間違いなかった。ただ、一つ計算違いだったのは、本来なら何事もなかったかのように立ち去るはずの黒沢さんが、なぜか今、自分の家のエレベーターにいることだった。
陸はすぐには答えなかった。
ふと顔を近づけ、温かい息が彼女の耳元をかすめる。
「付き合い、試してみませんか?」
遥は思わず顔を背けた。その言葉にまるで火傷したような気分だった。
女には興味がないと噂の陸が、こんなことを平然と言えるなんて——。だが、裕久のグループとこれ以上関わる気はなかったので、遥は即座に返した。
「断る。」
その時、不意にバッグの中の携帯が鳴り始める。画面には見覚えのない番号から、二通のメッセージが届いていた。
【隠れてるのか?俺は今お前の下にいるぞ。】
【陸に取り入ったからって、自分の立場が変わると思うなよ。あいつがそんな女、必要とでも思ってるのか?】
……狂ってる。遥の指先は冷たくなり、胸の奥がざわつく。陸が視線を外した隙に、遥の手は彼の太ももに伸びていた。
「さっきの話、取り消します。上で少し休んでいきませんか?」
裕久がどこかから飛び出してきそうな状況よりは、まだ陸を部屋に上げるほうがマシだと遥は思った。
エレベーターは静かに上昇し、壁には二人の影が映る。
遥は足元の隙間をじっと見つめ、間に置かれたスーツケースが二人の間に妙な距離感を生んでいた。
陸は彼女の左側、半歩分の距離に立っている。スギとレザーの冷たい香りが、静かに彼女を包み込み、喉が詰まるような緊張感を与えていた。
また、あの獲物を狙うような視線が戻ってきた。
「チン――」中層階でエレベーターが止まり、数人が乗り込んできた。
遥は自然と後ろに下がったが、突然、腰を大きな手でしっかりと掴まれる。体が固まる。あの独特の匂いが鼻先をかすめ、薄い布越しに、その手がサイドジッパーに触れる気配がした。
馬鹿みたい、幻覚でも見ているのか。鏡に映る男は品のある佇まいで、誰も彼の手が何をしているか想像できないだろう。
上の階の隣人が声をかけてきて、ついでに陸をちらりと見た。
「彼氏さんですか?」
遥は苦笑いしかけるが、陸の手はさらに大胆に動き始めていた。
「ただの友人です。」
隣人はにやりと笑った。
「なるほど、若い人はいいですね。」
ちょうどその時、エレベーターが目的の階に到着した。
遥は小さく「着いたよ」とささやく。
「うん。」
陸は低く答え、彼女のスーツケースを軽々と持ち上げ、もう一方の手で彼女を人混みから守るようにしてエレベーターを出た。
遥の住まいは1フロア2戸。陸は表札を一瞥する。
玄関のセンサーライトが二人の影を壁に映す。扉が閉まる音と同時に、遥は冷たい木のドアに押し付けられた。
陸は膝を使って彼女の足を開かせ、温かい息を耳元に吹きかける。
「友人、ね?」
その言葉を噛みしめるように、彼の指はドレスの背中のファスナーを器用に下ろしていく。
「そういう友人も、いるんだな?」
シルクのワンピースが背中を滑り落ち、足元にたまる。陸は腕を膝の下に差し入れ、軽々と遥を抱き上げた。
一瞬の浮遊感に、遥は反射的に彼の首に腕を回す。長い髪が彼の顎をかすめた。
「なぜ気が変わった?」
陸は彼女を持ち上げ、目線を合わせるように促す。
天井灯が彼の頭上から降り注ぎ、眼鏡のレンズが冷たく光る。瞳の奥は読み取れない。
下の階のあの男が怖くて、とは言えない。
遥は無意識にシャツの肩を指でつまみ、まつげを震わせながら答える。
「黒沢さんは…どっちの返事が欲しいですか、建前か?それとも本音か?」
彼の喉から低い笑い声が漏れる。
次の瞬間、遥は玄関のキャビネットに押し倒された。
冷たい木の感触に、背筋がぞくりとする。陸の手が腰をなぞりながら下へ滑り、遥はようやく声を絞り出す。
「……準備してないです。」
陸は内ポケットから財布を取り出し、彼女の胸元に置いた。
遥が慌てて開くと、指先に銀色のパッケージの角が当たる。こんな用意周到な人が、と少し呆れすら感じる。
陸がそれを取り上げるとき、指先が彼女の鎖骨をなぞる。
その時、キャビネットの上のスマホが激しく鳴り出した。画面に表示された番号は、さっきの脅迫メッセージと同じだった。
遥の体が一瞬で強張る。
「気を散らすな。」
陸は彼女の顎をつかみ、無理やり顔を向けさせる。膝は強引に彼女の足の間へと割り込んだ。
しつこく鳴り響くバイブ音。三度目の着信で、陸は腕を伸ばし、無造作に画面をスワイプして通話を繋げた。
「本当にそいつを部屋に連れ込んだのか!?」
裕久の怒鳴り声が静けさの中に響く。
「俺がいなきゃ、お前なんて何でもないだろ!部長の座が惜しくないのか!」
遥は思わず爪を手のひらに食い込ませた。昇進願いは人事部で三ヵ月も止まったまま。裕久に本気で潰される可能性は十分にある。屈辱が胸の奥を突き刺す。
陸は急に彼女の腰を強く抱き寄せ、耳元に噛みつくように囁いた。
「彼に聞かせて。」
遥は唇を噛み、声を堪える。
だが、陸がさらに強く動いた瞬間、思わず甘い声が漏れてしまう。
電話の向こうは一瞬、静まり返った。すぐに獣のような怒号が響く。
「遥!今すぐ下りてこい、聞こえてるだろ!」
遥は心の中で毒づく。自分で上がってくればいいじゃない。結局、陸には手を出せないくせに。
陸が怒っているのは明らかだった。動きに容赦がない。空気を読んだ遥は、彼の首にすがりつき、少し甘えた口調でそっと唇を寄せる。
「助けてくれませんか?」
陸の目が一瞬だけ暗くなり、眼鏡を外す
彼は本気で助けてくれる。昨夜、彼の部屋に入ったのもその証拠だ。
陸は携帯を取り上げ、耳に当てる。
「何か用か?」
返ってきたのは切れる寸前の忙しない音だけだった。
彼は鼻で笑い、携帯をキャビネットに伏せた。
眼鏡の奥の視線は、まるで獲物を見据えるように遥を見つめる。
「俺を利用するなら、それなりの代償は払ってもらう。」
寝室のカーテンは隙間が空き、月明かりが床に斜めに差し込んでいる。
遥は枕に沈み込み、指先さえ動かせないほどに疲れ切っていた。ベッドの反対側がわずかに沈む。陸が背もたれにもたれ、遥の髪を指先で無造作に弄んでいる。
「どうだった?」
ふいに彼が口を開く。
遥はまぶたを開ける気力もない。
玄関からリビング、バスルーム、そして寝室まで——陸は「代償」の重さを行動で示した。
もしこれが有料のサービスなら、遥の給料では足りないだろうとすら思う。
隣でベッドが軽く沈み、陸がシャツのボタンを留めている。月明かりに浮かぶ肩幅の広いシルエットが美しい。
彼は床に落ちた金縁の眼鏡を拾い上げ、かけ直した。チェーンが頬に揺れ、またあの端正な黒沢さんに戻る。
「一週間。」
最後のカフスを留めながら、彼は感情のない声で言う。
「それまでに、納得できる返事を聞かせてくれ。」