陸のあの夜の言葉は、まるで静かな湖に投げ込まれた小石のように、遥の心に一瞬だけ波紋を広げては、すぐに水底へ沈み、跡形もなく消えていった。
一夜限りの関係に、彼女はもともと何も期待していなかったし、余裕もなかった。
今の彼女は、目の前の見えない戦い——危うい仕事の綱渡り——に、全神経を注がざるを得なかった。
裕久の報復は、予想以上に陰湿だった。
彼は直接彼女に攻撃を仕掛けるのではなく、彼女のキャリアの急所を的確についてきたのだ。
彼女が寝る間も惜しんでまとめ上げた大型アニバーサリーイベントやディーラー会議は、すでに横浜市の三原ホテルで開催が決定していた。これは、彼女が部長へ昇進するための最大のチャンスだった。
しかし、いざ大詰めとなったその瞬間、重要なクライアントたちが突然態度を変え、曖昧な返事をしたり、彼女を避けたりし始めた。
そこに裕久の影がないはずがないと、遥は確信していた。
何年も積み重ねてきた努力が水の泡になろうとしている。彼女は、どうしても諦めきれなかった。
その夜、彼女は銀座クラブ「みやび」のVIPルームの前の廊下で、深く息を吸い込み、込み上げる感情を抑えて、プロフェッショナルな微笑みを浮かべながら重い扉を開いた。
扉の向こうは、廊下の静けさとは対照的な華やかで騒がしい世界だった。
巨大なクリスタルシャンデリアの下、マーブルのカウンターには高級ボトルがずらりと並んでいる。
横浜屈指の高級クラブだけあって、男たちの周囲には、艶やかなホステスばかりが集っていた。
遥は、きちんと仕立てられたスーツ姿で、そんなきらびやかな空間の中では明らかに浮いていた。
「おや、裕久のお気に入りじゃないか? 新入りかと思って礼儀知らずだと勘違いしちゃったよ。」と、嘲るような軽い声が響いた。
遥の笑顔が、わずかに引きつる。
やはり罠だった。
この林という男はこれまで会おうともしなかったのに、突然「みやび」にいると情報を流してきた。彼は今回のプロジェクトの中で最も重要な人物だ。わかっていても、彼女は踏み込まざるを得なかった。
裕久が、ここで彼女を待ち受けていたのだ。
すぐに誰かが「裕久の見る目はやっぱり違うね、スタイルも抜群だ」と茶化す。
一見すると褒め言葉だが、皮肉と品定めの視線が隠されていた。
遥はきちんとボタンを二つ外しただけのシャツに、露出の多いホステスたちとは正反対の落ち着きと色気が同居し、その存在感は一際際立っていた。
「俺が飽きた女を、何が“お気に入り”だって?」
隅の席から、裕久がわざとらしく声を張り上げ、悪意に満ちた言葉を投げつけてきた。
遥がそちらを振り返ると、彼は派手なドレスの女を腕に抱え、その手は大胆にスカートの中に伸びていた。
かつて彼女の前で演じていた紳士的な仮面は、今や見る影もなかった。
その一言で、部屋の空気が一気に緊張感を増す。
「もしかして、今夜は裕久さんを満足させられなかったの? ほら、ちゃんと謝って一杯ご馳走しなよ」
向けられる視線は、冷ややかだったり、嘲笑だったり、興味本位だったり——誰一人、温かい目を向ける者はいなかった。
これは明らかに仕組まれた場だったが、状況は彼女の想像以上に悪かった。
裕久が女を突き放し、指で力強くカウンターを叩きつける。
「どうした、怖じ気づいたのか?さっさと来い。ここの酒を全部飲んだら、土下座して謝るチャンスをやるよ!」
それはもはや冗談ではなく、明白な侮辱だった。
数人の男がさすがにやり過ぎだと小声で制止しようとしたが、逆に裕久の怒りを買う。
「はっ、彼女の純真な顔に騙されてるんじゃないか? いい女だと思うのか?」
ビジネスの場で女一人のために波風立てる者はいない。裕久がそう言えば、誰もが黙り込む。
さっきまでの賑やかさは消え、音楽さえ止まって、全員の視線が遥に集まった。
彼女がふと気配を感じて扉の方を見やると、いつの間にか屈強そうな男が二人、無言で立っていた。
どうりで簡単に中へ入れたはずだ。自分の立場が一瞬で理解できた。
悟った瞬間、彼女の心は妙に静まった。毅然とした足取りで、裕久の元へと歩いていく。
ハイヒールの音が静寂に響き、背筋を伸ばし、冷たい微笑を浮かべているその姿は、場の空気を一変させるほどの存在感だった。
裕久も、遥が自分が最も手をかけた女であり、同時に人生最大の屈辱を味わわせた女だということを認めざるを得なかった。
このままでは、自分のプライドが許さない。
「伊藤さん。」
その声は、陸の前で見せたあの妖艶さを思い出させ、裕久の怒りをさらに煽る。
遥は、ほとんど表情を変えずに口元をわずかに吊り上げる。
「私がこの酒を全部飲んだら、見逃していただけますか?」
裕久は舌で頬を押しながら、鋭い視線で答えた。
「まずは飲んでからだ。」
「飲め!飲め!飲め!」と、男たちがはやし立て、ホステスたちは愛想よく煙草に火をつけたりし始める。
遥はカウンターに並んだ色とりどりの強い酒のグラスを見渡した。
そして、ふっと口元に皮肉な笑みを浮かべ、巨大なデキャンタを手に取る。
全員が固唾を呑んで見守り、誰も止めようとはしなかった。皆、彼女がどこまでやれるのかを見ていた。
彼女は無駄のない動作で、カウンターの酒を次々とデキャンタに注ぎ込む。
混ざり合った酒が、照明の下で不穏な色に濁る。
「一杯ずつなんて、時間の無駄ですよね。」
裕久は冷笑を浮かべ、彼女の出方を見守る。
「裕久、もうそのくらいでいいだろ。こんなことしたら問題になるぞ」と誰かが小声で止めるが、裕久は聞く耳を持たない。
「嫌なら今すぐ出て行け。今夜はこいつのプライドを徹底的に叩き潰してやるんだ。」
遥はその男に一瞬だけ会釈し、感謝の意を示す。
そして、裕久の前にまっすぐ立った。
彼女の瞳は、いつもの霞んだような柔らかさは消え、底知れぬ誘惑と冷たさを湛えていた。
裕久は一瞬息を呑む。かつて本気で好きだった女が、今まさに屈したかのような態度を見せていることで、少しだけ気勢を削がれる。
「自分が悪いと思わないのか? 黒沢ンさんに取り入ったからって、あいつが助けてくれると思ってるのか? 俺はお前のためにここまでしたのに、裏切りやがって!」
次の瞬間、彼女の表情が一変し、重いデキャンタを力いっぱい裕久の顔めがけてぶちまけた!
一瞬の出来事だった。
入り口の警備員が動くより早く、裕久は頭から酒を浴び、遥の平手打ちが頬を打ち抜いた。
「ふざけるな!自分だって女遊びが絶えないくせに、よく私を責められるわね! 調子に乗るのも大概にして!」
「浮気されたくらいで何よ?陸とは一晩中楽しんで、最高だったわ。あなたには無理でしょ?」
裕久は呆然とし、顔は熱く、酒にまみれて屈辱と怒りで震えた。ようやく我に返ると、彼女に襲いかかろうとする。
その瞬間、部屋は悲鳴と混乱に包まれた。
そして、その混乱の中で、VIPルームの扉が外から勢いよく蹴破られる!
時生が入ってきて、ちょうど遥の「衝撃的な」言葉を聞き取っていた。
彼は意味ありげな視線を後ろに投げ、口笛を吹いた。
「おやおや、裕久、ずいぶん盛り上がってるじゃないか? 俺たちに声くらいかけてくれてもよかったのに。」
軽い口調のまま、彼の後ろにいた男たちがすぐさま入り口の用心棒を押さえつけ、静かにその場を譲らせる。
部屋は一気に静まり返り、誰もが息を呑んだ。
そして、全員の視線が高橋時生の後ろからゆっくりと歩み寄ってくる男に集中した。
彼の周囲には、独特の重圧感が漂い、空気がさらに張り詰めていく。
人々は無意識のうちに中央に大きなスペースを空けた。
陸は、誰も気にすることなく、その中央に進み、ソファに腰を下ろす。仕立ての良いスーツに包まれた体は凛とし、照明がその端正な顔立ちに陰影を落としていた。
彼は、どこか疲れた様子でネクタイを緩めると、低く、けれどはっきりとした声で言った。
「来い。」
その一言に、誰もが顔を見合わせ、一瞬、誰に向けた言葉か分からなかった。
ただ一人、裕久だけが、酒と平手の痕を顔に残したまま、真っ赤な目で遥を睨みつけていた。
なるほど、あの女が一人でここに乗り込んで来られたのは、陸を頼っていたからか——その事実に、裕久は奥歯を噛み締めるばかりだった。