個室の空気が一瞬にして凍りついた。
無数の視線がサーチライトのように遥へと注がれる。その目には驚き、疑念、信じられないという色が浮かんでいた。
さっきまで絶体絶命だった女が、今や陸と何らかの関係を持っているらしい。不退転の口ぶりからして、ただの知り合いではなさそうだ。
遥自身も、思いがけない展開に戸惑っていた。
一歩踏み出すとき、彼女はただ怒りをぶつけたかっただけで、最悪の場合は裕久と心中しても構わないとさえ覚悟していた。
だが、陸の登場は完全に予想外だった。何よりも不安だったのは、さっき自分が口にした「一晩中」の激しい言葉を、彼がどこまで聞いていたのかということだ。
陸の視線は人混みを貫き、正確に彼女を捉えていた。
普段は動じない遥も、珍しくどうしていいかわからず、視線の置き場に困る。
「俺が直接迎えに行こうか?」
その一言が、二人の関係を決定づけた。
どんな鈍い人間でも、これで全てを察するだろう。どうりでこの女が裕久の縄張りで堂々と振る舞えるわけだ。陸が後ろ盾だったのだ。
ただ、それが一時の関係なのか、それとも何か裏があるのか、今は誰も詮索しようとしない。
ただ一点、今夜の主導権が完全に変わったことだけは明らかだった。
時生が皮肉な笑みを浮かべ、遥の方へ顎をしゃくった。
「こっちに来いよ。俺たちがついてる。」
軽い口調だが、立場ははっきりしている。
遥は深く息を吸い、もはや振り返ることなく、荒れ狂う裕久を背に静まり返った人々の間を抜け、部屋の主である男の隣へと向かい、腰を下ろした。
その場所の変化が、彼女の立場を一変させる。
数分前まで見世物扱いだった彼女が、今や主賓の隣に座り、さっきまで冷ややかに見ていた者たちを見下ろしている。
誰かが話しかけようとしたが、陸の冷たい横顔と、なおも地面でもがく裕久を見て、皆、黙り込んだ。
席についた途端、よく知る冷ややかなウッディな香りが漂い、遥の背筋がピンと伸びる。
高橋時生は固まった空気を一瞥し、適当な席に腰を下ろした。
「何突っ立ってんだよ?さっきは盛り上がってたじゃねぇか。座れよ。」
軽い調子だが、そこには圧倒的な威圧感がある。
裕久はその場に凍りついたまま、顔には酒と引っかき傷が残っている。女にここまで恥をかかされて、このまま引き下がれるはずがない。
もし陸が現れなければ、すでに手を出していたかもしれない。怒りに目が真っ赤に染まる。
だが、この瞬間、誰も彼に注意を払わない。
全ての関心は陸に向けられ、裕久の存在は完全に無視された。
気の利いた店員が音楽を流し直し、場の空気をなんとか取り戻そうとする。
高橋時生は興味深そうに遥を見ていた。
やはりこの女は只者じゃない。陸がわざわざ駆けつける相手は、彼女が初めてだ。
だが、どう見ても、男の片思いにしか見えない。
BGMと控えめな会話が再び流れ出し、ピリピリした空気がわずかに和らいだ。
遥はそっと息を吐く。
「肝が据わってるな。」
不意に耳元で低い声が響き、あたたかい吐息がかかる。
遥はハッと体を強張らせた。いつの間にこんなに近づいていたのか。このほとんど囁くような距離は、まるで「この女は俺のものだ」と全員に宣言しているようだった。
少なくとも今夜だけは、彼女はこの男のテリトリーにいる。
裕久の目は真っ赤に血走り、傷ついた獣のような声で叫ぶ。
「黒沢さん!女のために義理を捨てるんですか!」
個室は再び静寂に包まれ、緊迫感が張り詰める。
誰かが裕久に目で合図し、引き下がるよう促す。
だが、怒りと屈辱に支配された裕久は、今さら引くことなどできなかった。このままでは横浜での立場がない。
陸は、裕久に一瞥もくれない。
代わりに、裕久の友人が意を決して立ち上がり、彼を引っ張ろうとする。
「裕久、もうやめろ!黒沢さんに逆らう気か?早く帰ろう!」
「どけっ!」
裕久は友人の手を振り払い、乱れた格好のまま遥めがけて突進し、腕を掴もうとした。
数人のホステスが悲鳴を上げる。
遥の体が反射的に強張る。だが次の瞬間、がっしりとした腕が彼女をしっかりと抱き寄せた。
陸の眼差しは冷たく光り、言葉もなく、背後の二人のガードが電光石火で動き、裕久を押さえ込んだ。
裕久は取り押さえられたまま、無駄な抵抗を続ける。
陸は顔を近づけ、熱い息が彼女の耳元をくすぐる。かすれた声は、彼女だけに聞こえる。
「また助けてやった。今度は何で返してもらおうか。」
遥は思わず彼の深い瞳を見つめてしまう。そこにある思惑があまりにもあからさまで、心臓が跳ねる。
ここがこんな場でなければ、彼はきっとそのままキスしてきただろう。
彼女は拳を握りしめる。言外の意味は十分に伝わるのに、なぜ自分なのかは分からない。
時生は冷ややかに事の成り行きを見ているだけで、手は出さない。
騒ぎが大きくなるのを見て、誰かが慌てて立ち上がる。
「黒沢さん、高橋さん、会社で急用ができまして、今日はこれで失礼します。」
陸が無反応なのを見ると、他の者たちもすぐに席を立とうとする。
「どこに行くんだ?」
陸はゆっくり煙草に火をつけ、静かに言う。
全員その場で動きを止める。
「せっかくのいい酒だ。全部飲まなきゃもったいないだろ。」
吐き出された煙の向こうで、静かな声が絶対の命令となる。
「は、はい!必ず全部いただきます!今夜の勘定も全部こちらが持ちます!」
皆が慌てて席に戻り、グラスを手に取る。
遥は、周囲の乾杯の嵐など気にも留めていられない。
なぜなら、陸の手が、彼女の腰に回されたまま、シャツ越しに背筋をなぞるようにゆっくり滑っていたからだ。
指先の温度が布越しに伝わり、強引で挑発的だ。
大人の世界のルールは、彼女も分かっている。これ以上しらばっくれるのは、さすがに無理がある。
「思ったより評価が高いんだな。」
彼がさらに近寄り、耳元で誰にも聞こえないように囁く。
「でも、ああいう話は、もう他人の前ではやめておけ。」
バチッ――頭の中で何かが切れる音がした。顔が一気に熱くなる。
「そ、それは…ただの口から出任せ!本気じゃないから!」
思わず声が上ずる。
「口から出任せ?」
陸の目が一瞬暗くなり、危険な気配が漂う。
遥はしまったと思い、舌を噛みそうになる。
「……まあ、完全に嘘ってわけじゃないけど。」
自分でも情けなくなる返事だった。
だが、陸は今、彼女の言葉の真偽を追及する気はないようだ。彼なりのやり方で確かめるつもりなのだろう。話題を変え、低くしぶい声で囁いた。
「この一週間、俺のこと考えてたか?」
言葉に詰まる遥。
考える暇なんてなかった。たった一晩の関係の男を思い出す余裕なんてない。ましてや、一夜限りの相手に未練などあるはずもない。
「俺はずっと考えてた。」
彼は勝手に続け、彼女の赤らんだ耳たぶをじっと見つめる。
「あの夜のお前の声…忘れられない。」
この男は本当に――一言で人を翻弄する。
露骨な言葉は使わずとも、その声音には色気が滲んでいた。
「黒沢さん、」彼
女は横を向き、なんとか主導権を取り戻そうとする。
二人は周囲を気にせず、親密に言葉を交わす。その光景は、保安に押さえつけられている裕久の目には、火に油を注ぐようなものだった。
やはり、二人は最初から繋がっていたのだ。これまでの集まりや場でも、どこかの隅で…自分が完全に道化だったと痛感する。
「遥!」
裕久は絶叫し、獣のように暴れる。
ガンッ――
重い灰皿が風を切って裕久の額を直撃し、鮮血が吹き出した。
陸は無表情で手を引く。その手首には力が入り、血管が浮き上がっている。
彼の腕時計がちらりと覗き、その冷たい金属がかつて彼女の体に触れ、震えを呼び、最後には彼の優しいキスでほどけていった夜を思い出させた。
思わず瞳孔が開く。
あの夜の記憶が、波のように押し寄せる。自分が陸を、ただの偶然の相手と割り切れないことを、心の奥底で認めたくはなかったが――気づけば、得体の知れない渇望が燻っていた。
「どうやら、お前には甘すぎたみたいだな。」
陸の声は氷のように冷たい。
「伊藤健に連絡しろ。すぐに息子を引き取らせろ。」
部下が即座に動く。
やがて個室には二人だけが残され、音楽もいつの間にか止まっていた。
完全な静寂。
陸の視線が再び遥に向けられ、圧倒的な力で逃げ場を奪う。
「さて、今度は――どう返してもらおうか。」