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第06話 彼女がいるの?


陸の率直な問いかけに、遥は一瞬息を呑んだ。

気持ちを落ち着け、すぐには答えずに彼の視線をまっすぐ受け止める。

「黒沢さん、先に私からひとつ聞いてもいいですか?」


「どうぞ。」

彼の視線は変わらず遥の顔に注がれ、まるで値踏みするような深いまなざしで、心の内は読み取れない。


遥はよく分かっていた。そもそも陸は、最初に出会った時から特別な関心を示していたわけではない。

すべての転機は、あの賭けのような部屋番号から始まった。

今、彼の手が遥の腰に添えられているが、それ以上踏み込むことはなく、あくまで彼女の答えを静かに待っているようだった。この駆け引きは、二人の間で暗黙の了解になっている——いつも最初に沈黙を破るのは、遥の方だ。


「私のこと、好きなんですか?」

遥は率直に切り出した。


陸はわずかにまぶたを上げ、淡々とした口調で答える。

「考えすぎだよ。」


予想していた返答ではあったが、ここまであっさり認められると、どこか玩具にされているような苛立ちが残る。

とはいえ、裕久のような表面だけの「誠実」さより、陸の正直さの方が、まだましだとも思えた。


ちょうどその時、彼の手が腰から離れ、距離を取る仕草を見せる。さっきまでの親密な雰囲気が、まるで嘘だったかのように消えた。

「ただの推測です。」遥は気持ちを切り替え、穏やかに言う。

「それなら、黒沢さんのお誘いはお断りします。」


陸は少し眉を上げ、探るように問う。

「本当に?理由は?」

この男は時に強引で失礼に映るが、時には妙に紳士ぶる。ベッドの上でも、形だけは気遣うような素振りを見せる。

その矛盾が、遥にはどこか滑稽に思えた。


「見ての通り、私は裏切りを経験したばかりです。」

「今の私には、男性を信じる余裕はありません。この状態で、新しい関係を始める気にはなれません。」

「俺が言ったのは、長期的なセフレ関係だよ。」

彼の指先の煙草が赤く光り、煙と彼の冷たいウッド系の香りが混ざり合う。決して悪い匂いではないが、遥の言葉はそこで詰まった。

「必要な時だけ、お互いの欲求を満たす。それだけでいい。」


これ以上この話を続けても意味はない。

遥は立ち上がる。

「もし断られるのがそんなに嫌なら、今日のお礼に食事でもご馳走しますが?」

これが三度目で、最後の拒絶だった。


「その必要はない。」

陸は遥から完全に視線を外し、冷たく言い放つ。

「話がまとまらないなら、俺がまだそこまで興味を持っていないうちに終わりにしよう。帰っていいよ。」

彼の目にかすかに残っていた欲望も、一瞬で消え去る。その切り替えの早さに、遥は思わず息を呑む。

自分にはここまで割り切れないが、どこかで彼に感謝していた。

引き際をわきまえていることに。


ベッドの上では確かに相性は良かったが、陸のような相手と深入りしてしまえば、決して対等ではいられない。

後々抜け出そうとすれば、「何か企んでいる」と言われるのがオチだ。


「それじゃ、失礼します、黒沢さん。」

そう言って背を向けた。

重い個室の扉が後ろで閉まり、中の世界を遮断する。


冷たい扉にもたれかかった瞬間、遥は自分の背中が冷や汗で濡れていることに気づいた。

実際、意図的に探しに行かない限り、この大都会・東京で陸と偶然出会う確率はほとんどゼロに近い。その後、半月もの間、彼はまるで最初から存在しなかったかのように、遥の前から姿を消した。


裕久と別れたという噂も、すぐに会社中に広まった。世間を賑わせた「伊藤家の御曹司との恋愛劇」も、たった三ヶ月であっさり幕を閉じた。ようやくほっとしたと思いきや、周囲の空気は一変する。


やっぱり、嫌な予感は的中した。


「こんな基本的なデータも間違えるとは、新人か?会社にどれだけいるんだ?君の専門性を疑うよ!」

田中次長の怒号がオフィスに響く。

昨夜、急な連絡で徹夜して仕上げたデータ報告書が、クラウド上でなぜかミスになっていた。当然、頭ごなしに叱られる羽目に。

だが、遥はアップロード前に何度も確認した記憶がある。

ここまでしてミスが出るなら、原因は自分ではなく——誰かがわざとミスを出させようとしているのだ。


隣の佐藤双葉がタイミングよく口を挟む。

「最近、早川さんのお客様からのクレームも多いですよね。昨日の尾上夫人も、デザート台のトラブルで苦情を言ってました。同僚として言わせてもらうけど、プライベートな問題で営業部の評判を落とさないでほしいな。お客様第一ですから。」


遥は佐藤双葉の嫌味を無視し、プリントアウトした書類を田中次長の机に置いた。「田中次長、クラウドのデータがなぜかおかしくなっていますが、念のため紙でバックアップを用意しています。ご確認ください。データに間違いがないかどうか。」


田中は不意を突かれたのか、一瞬固まってから、わざとらしく書類に目を通す。

遥はそんな田中の芝居がかった動きを見つめながら、すぐに察した——この嫌がらせは、裕久との別れをきっかけに、誰かが仕掛けてきたことだ。


「ちなみに、尾上夫人の件ですが、」

「昨日、直接お宅に伺い、手土産を持って謝罪しました。すでにご理解いただいています。」


田中は手を止め、渋い顔で書類を机に置く。

佐藤双葉も、遥が先手を打っていたことに驚いた様子で、気まずそうな表情を見せた。


課長室を出ると、佐藤双葉がしつこくついてくる。

「頑張ったって無駄だよ。裕久家のご令息からああ言われたら、これからもっと大変になるだけ。」

「余計な心配は無用です。」


何年もこの職場で揉まれてきて、同じ罠に二度もはまるほど、もう馬鹿じゃない。


小林雪が遥のもとに駆け寄り、コーヒーを差し出す。佐藤双葉がグループリーダーの部屋に入るのを見て、呆れたように眉をひそめた。

「自分だってコネで入ってきたくせに、伊藤さんのことを人に言える立場じゃないよね。ダブルスタンダードにも程がある。」


「気にしても仕方ないよ。」


小林雪は椅子を近づけ、声を潜めて言う。

「それで、裕久とは何があったの?ただの別れにしては、まるで犬みたいにしつこくて……。今じゃ企画部も彼に守られてるって鼻高々で、しょっちゅう営業部に協力しないとか文句言ってくるし、本当にやっかい。」


遥は裕久とのゴタゴタを詳しく話す気になれず、話題をそらす。

「何見てるの?」


「うん、ニュースチェックしてたの。」

小林雪はスマホ画面を見せる。

「今日のトップ記事、陸に熱愛報道!お相手はインターナショナルモデルらしいよ!」


遥は画面に一瞬だけ目をとめ、すぐに何事もなかったようにパソコンのスケジュールに目を移した。

「明日の部の飲み会、田中次長、何時って言ってたっけ?」


小林雪は特に気にせず、スマホをしまう。

「夜七時、いつもの店。佐藤さん、今回も何か仕掛けてきそうだよね。田中次長、前から遥ちゃんにちょっかい出したがってたし、伊藤さんと別れた今、明日何かあるかもよ。油断しないで、ヤバくなったら酔ったふりしてトイレに逃げるとかね。」


明日の飲み会を思い出し、遥は頭が痛くなった。


「分かってる。」

そう答え、再びパソコンのびっしりと詰まった予定表に視線を戻す。指先が一瞬だけキーボードの上で止まり、意を決してエンターキーを打った。


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