会社の飲み会は、新しくオープンした高級クラブで開かれることになった。
この話を聞いてから、小林雪は一日中文句ばかり。
「上司の分まで割り勘させられる飲み会文化、しかも下品な冗談まで我慢しなきゃいけないなんて、やってられないよ。」
「まあまあ、やめときなよ。」
遥は車を停め、バッグを手に取る。「
そんな愚痴、社内ネットに書いたらすぐ『協調性がない』『自己中心的』って言われるだけだよ。」
小林雪は大げさに目を回しながら車を降りた。ちょうどその時、佐藤双葉が田中次長に腕を絡ませ、楽しそうにクラブの入り口へ入っていくのが見えた。
「いやー、あのハゲ親父にまで媚びるとはね……」小林雪はあきれ顔。
「うちのホテルにももっとイケメン来てくれないかな。仕事に全然やる気出ないよ。」
遥は車を施錠し、横浜の蒸し暑い夜風に髪をなびかせた。
「早く行こう、遅れたらまた一気飲みさせられるよ。」
これもいつものことだ。小林雪も気を取り直し、早川を引っ張って急ぎ足で個室へ向かった。
「道で渋滞かと思ったよ。」
佐藤双葉は二人が入るとすぐに声をかけ、田中次長に向き直って甘ったるい声で言う。
「田中次長、この前の歌、今夜も最後にぜひ聴きたいです~。」
このお世辞が絶妙で、田中もご満悦の様子で佐藤の腰に軽く手を乗せた。
その時、クラブのスタッフが急ぎ足でやってきて、ドアを開けて丁寧に頭を下げた。
「黒沢様、高橋様、いらっしゃいませ。」
入ってきたのは、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ男と、その後ろにボディーガード。陸本人に間違いなかった。
遥は思わず視線を逸らした。陸も彼女に一瞥もくれず、まるであの夜の熱いキスなどなかったかのような態度だった。
「早川さん、お久しぶりです。」
隣の高橋時生がにこやかに声をかけてきた。彼の後ろには、普段なかなか会えない大物たちが続々と現れる。裕久でも入れないような、特別な面々だ。
高橋時生の一言で、場の空気が一変した。皆の視線が自然と遥に集まり、興味深そうに彼女を見つめた。
「せっかくだし、一緒に飲みませんか?」
高橋時生は肩をすくめて、「それは本人に聞いてくださいよ。僕には決められませんから。」と笑った。
その間も陸は足を止めず、まっすぐVIPエレベーターへ。
「ご自由にどうぞ、僕は先に行きます」といった様子だった。
高橋時生は早川に向かって微笑む。
「時間があったら、上で顔を出してください。」
この一言の重みは大きい。クラブの最上階は限られた人しか入れない場所。高橋時生の招待は、早川に特別なパスを渡すようなものだった。
「早川さん、高橋様と知り合いなんですか?」
同僚たちは驚きを隠せない。
田中すら驚いた表情で、さっき名刺を渡しておけばよかったと後悔しているようだった。
佐藤双葉は早川をじろじろ見て、軽く言った。
「伊藤様の仕事で知り合ったんでしょう?やっぱり美人は得よね。伊藤様みたいな人も虜にするなんて、早川さんはもっと外で活躍すべきだよ、営業部なんてもったいない。」
小林雪が反論しようとしたが、早川がさっと手を伸ばして止めた。早川は佐藤を見つめ、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「仕方ないよ、生まれ持った強みってやつは、あなたにはきっと分からないでしょうね。」
「なっ……」佐藤は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。同僚たちは慌てて場を和ませた。
「さぁ、早く入ろう。田中次長の歌、みんな待ってますよ!」
「そうそう。」
佐藤が早川を目の敵にしているのは誰の目にも明らかだったが、当の早川はまったく気にしていない様子だった。
一方、最上階の個室で、陸が席につくと、藤原智也が高橋時生に詰め寄っていた。
「本当にお前の女じゃないのか?」
高橋時生はすぐに突き放す。
「やめろって。もし俺の女だったら、わざわざお前とこんなとこで飲んでねぇよ。」
彼だって遊び人だ。あんな美人が目の前にいたら、普通は手を出すものだろう。高橋は陸を見やりながら、トランプをもてあそんで言った。
「あの日……うまくいかなかったのか?」
裕久が元カノに何か仕掛けるって話を聞いて、ある人は大事な打ち合わせを後回しにしてまでクラブに駆けつけた。結局、一人で煙草を吸っていたらしい。高橋はどうにも気になって仕方がない。
「余計な口出すな。」
陸の声は冷たかった。
面倒な男は怒らせない方がいい。高橋は察して口をつぐみ、スタッフに何かを小声で頼んだ。
下のフロアでは、佐藤双葉が持ち前の社交性で場を盛り上げ、田中をすっかりその気にさせていた。小林雪は早川にこっそり注意を促した。
案の定、佐藤がグラスを手にやってきた。
「早川さん、この前あの難しい尾上夫人の案件までうまくまとめてくれて、うちの営業部のエースだよね?ここは一杯ご馳走させてよ。」
早川は予想していた。
「これから運転だから、お酒はちょっと。」
佐藤は眉を上げた。
「それはちょっと感じ悪いなぁ。みんな何杯も飲んでるのに、私たちを仲間だと思ってないんじゃない?」
そんなやりとりの最中、個室のドアが開き、スタッフがワゴンを運んできた。高級ワインと美しいフルーツ盛り合わせが並んでいる。
「これ、注文してないぞ?」
「いえ、ご注文通りです。」
スタッフはにっこり。
「これは高橋様から皆様へのご招待です。それと、今夜のご利用はすべて高橋様のお支払いです。」
ワインの値札を見て、誰もが息を呑んだ。静まり返る個室。佐藤は悔しそうに、「どうりで早川さん、私たちの酒なんて相手にしないわけだ。」と嫌味を言った。
小林雪はすかさず、「分かったならいいじゃん!高橋様がいるのに、あんたに飲ませるわけないでしょ?」と言い返す。
同僚たちは気まずそうに咳払い。スタッフは静かに退出した。
しかし、早川の心は穏やかではなかった。高橋時生が突然こんなことをするなんて、どういうつもりだろう。彼と特別な関係があるわけじゃないのに。
佐藤もこれ以上は絡めず、万が一早川が本当に高橋と繋がっていたら、裕久なんかより厄介だと考えているようだった。
早川が座ると、小林雪がすぐに寄ってきた。「
ねえ、高橋時生と一体どういう関係?」
早川は首を振った。
「分からない。でも、今夜の高橋時生の一杯で、しばらくは平和に過ごせそうだよ。」
彼女はちらりと、最近陰で嫌がらせしていた数人の同僚を見やった。
上にお礼を言いに行くべきか、それとも高橋が自分を誘っているのか――考えていると、隣のソファが急に沈み、安っぽい香水と酒臭さが漂ってきた。田中が席を移して、ぴったり早川の隣に座ったのだ。
「早川さんさぁ……」
田中は酔っ払っているのか、口調が馴れ馴れしい。
「実は前から君のこと、評価してたんだよ……」
よくある口説き文句だ。早川は何も言わず、肩に置かれた田中の手をそっと払い、少し距離を取った。「
まだまだ未熟ですが、田中次長にご指導いただいてますから。」
「いやいや、そんな謙遜しなくていいよ。」
田中はじろじろと彼女の胸元を眺めながら、「それにしても、高橋様とそんなに親しいとはね……」