田中の意図は明らかだった。
遥は、表情を変えずに田中が手にしたグラスを揺らす様子を見ていた。グラスの縁が照明に反射して、濁った光を放っている。
「高橋グループが新しくオープンした星野リゾートは評判がいいです。もしうちのホテルと連携してセットプランを作って、チェーン展開できたら……早川さん、営業部のエースはあなたですよ。」
遥は心の中で冷ややかに笑った。
こんな案件、部長クラスでも簡単には取れないのに、よくもまあそんな話ができるものだ。
彼女は口元をほんの少し上げ、夢物語には乗らず、田中が話し続けている途中で口を挟んだ。
「今度もし高橋さんに会う機会があれば、聞いてみます。でも、私は彼のこと、ほとんど知らないんです。」
田中の目が一瞬光る。
「何も次の機会を待つことはないでしょう?高橋さん、今夜はこの上のフロアにいらっしゃいますよ。」
遥の笑みが消えた。
高橋時生なら他人をごまかせても、裕久には通じない。
田中が営業部に送り込まれた裕久の父親の息がかかった人間だということは、誰もが知っている。部長の鈴木純子が産休に入ったことで、田中はすっかり自分が主役だと錯覚しているのだ。
遥は、あえて核心を突いた。
彼女はボトルを手に取り、自ら田中のグラスに酒を注いだ。普段は距離を置いて冷淡な態度なのに、今夜は逆に田中の気を引いてしまったようで、田中も裕久の指示を忘れかけていた。
「正直に言いますね。」
遥は田中を見つめた。「
高橋さんとは何の関係もありません。今夜のことも、たぶん別の人の顔を立ててのことです。」
「誰のことですか?」と田中は食い下がる。
「黒沢陸です。」遥は田中の目をじっと見た。
田中の手が震え、酒がこぼれそうになる。
高橋時生の周りに女性は絶えないが、陸の側に名のある女性がいるなんて聞いたことがない。田中はすぐに気を取り直した。
「でも、さっき……黒沢さん、あなたのこと相手にしていなかったように見えましたが。」
遥は髪の毛を耳にかけ、少し困ったように言った。
「ちょっと前にケンカしちゃって……ここ数日、会社でも冷たくされてるの、見てたでしょう?」
田中は酒を口にしながら、遥の顔をじっと観察していた。嘘か本当か、見極めようとしているようだった。
もし本当なら、裕久からの「遥を追い出せ」という指示も考え直さなければならない。
田中がそれ以上ちょっかいを出したり、無理に酒を勧めてこないのを見て、遥はトイレに行くと口実を作り、その場を離れた。
冷たい水が指先を流れる。遥がふと顔を上げると、鏡に佐藤双葉の姿が映っていた。今夜は散々な目に遭ったせいか、やはりついて来ていた。遥は紙タオルを手に取る。
佐藤双葉は鏡越しに口紅を直しながら、鋭い声で言った。
「大したもんね、裕久に高橋時生……男たちの間でうまく立ち回って、まだ清純ぶるつもり?疲れない?」
遥は最後の水滴を拭き取り、振り向いた。
佐藤双葉の赤い唇がまだ動いている。
「どこまで演じるつもりか見ものだわ……きゃっ!」
叫び声はBGMにかき消された。遥は彼女の髪をつかみ、そのままシンクに叩きつけた。
「口が悪いなら、洗ってあげる。」
「頭おかしいの?私に手を出すなんて!」
「手を出して何が悪いの?裕久にだって逆らえるのよ、あなたなんて怖くない。」
遥は片手で佐藤の手首を押さえつけ、顔を近づける。
「田中がどうして動かないか知りたいんでしょ?教えてあげる。私に気があるのは高橋時生じゃなくて、陸だから。」
「私、気が短いの。もう一度でも私にちょっかい出したら、どうなるかわかってる?」
彼女は佐藤を壁に押しやり、上から見下ろした。
「わかったら、自分のことだけ考えなさい。」
佐藤双葉は怯えた様子で遥を見つめ、化粧も崩れ、服も濡れてぐちゃぐちゃだ。彼女は慌てて化粧ポーチをつかみ、よろめきながらトイレを飛び出していった。
遥は大きく息を吐いた。この世の中、強い者には弱く、弱い者には強い人間ばかりだ。
呼吸を整え、振り返ったその瞬間、ピカピカの革靴が視界に入った。目線を上げれば、完璧にプレスされたスラックスの折り目。
――この脚……見覚えがある。
さらに上に目をやると、見慣れた腕時計が目に入り、胸がざわついた。
陸は彼女に目もくれず、横を通り過ぎて水道をひねった。まくり上げた袖からは、鍛えられた腕がのぞく。
今さら他人のふりをするのも不自然だ。
遥は隣に寄り、彼が水道を止めるのを見て、すかさず紙タオルを差し出した。――さっきのやり取り、全部聞かれていたかもしれない。
陸は差し出された紙タオルを見たが、受け取らなかった。
遥は深く息を吸い、「黒沢さん……」と声をかけた。
陸は聞こえなかったふりをして、そのまま背を向けた。
すれ違いざま、彼の冷たい香りが髪をかすめた。
遥は悔しそうに唇を噛む。今年は本当にツイていない。言ってはいけないことは、いつもこの人にだけ聞かれてしまう。
彼女はしばらく立ち尽くし、紙タオルを丸めてゴミ箱に捨てた。
スマホを取り出し、陸のLINEを開く。最後のやり取りは、無機質な「6506」という部屋番号だけ――あの夜の記憶が蘇る。
彼女は額を軽く叩き、メッセージを打ち始めた。
陸は最上階の個室に戻った。中は盛り上がっていて、高橋時生の隣には人気女優が寄り添っている。陸が戻ると、高橋時生が眉を上げた。
「トイレにしては、ずいぶん時間かかったな。」
陸は差し出された酒をかわして席についた。
珍しく、個室の女性たちの顔を一通り見渡したが、脳裏によぎるのは遥の姿ばかり――綺麗で棘があって、言い返すときは手厳しいし、喧嘩はもっと強い。でもベッドの上では、指先で掴めそうなくらい柔らかくて、拒むときは何事もなかったかのように冷たい。
それなのに、どうしても彼女に振り回されている――そう思いながら、陸は煙草に火をつけた。
藤原智也たちはもうかなり酔っている。高橋時生が陸の肩を軽く叩いた。
「さっき探しに行ったんだよ。スタッフが、二階にいるって言うから。」
VIP個室にはトイレがあるのに、わざわざ外に行くなんておかしい。しかも二階まで行くなんて……あの人のためじゃなきゃ、誰も信じない。
「俺はもう帰る。」
陸は煙を吐き出し、興ざめした様子で席を立った。
「もう帰るのか?」
高橋時生は驚いた顔をした。
トイレの中で、遥は謝罪の言葉を何度も打っては消し、消してはまた打った。事情を説明しようか、ただ謝ろうか――結局、送ったのはたった三文字。
「ごめんなさい。」
すると、赤いビックリマークが表示された――メッセージは送信できなかった。
そのマークを見つめながら、遥は初めてはっきりと思った。
陸という男は、本当に手強い。