トイレでの一件のあと、部の飲み会はあっけなくお開きになった。同僚たちは次々に帰路につく。
遥のスマートフォンが震えた。見知らぬ番号だった。顧客かと思い、すぐに応答する。
「もしもし?」
受話器の向こうから、女の耳障りな叫び声と不気味な笑いが混じったノイズが聞こえてきた。続いて、変声処理されたしゃがれ声が響く。「帰り道には……気をつけろよ。」
早川は無表情のまま通話を切ったが、胸の奥が重くなる。裕久――あの狂人だ。
交差点でタクシーを待つ間、皆多少なりとも酒が入っていた。
早川は裕久が何を企んでいるのか考えていた。自分に謝らせたいのかもしれないが、そんなこと絶対にあり得ない。自分の唯一の「失敗」は、後ろ盾がないことだけだ。
「黒沢さんの車よ。」
誰かが呟いた。みんなが一斉に車道に目を向ける。
黒いベントレーが通り過ぎ、そのナンバーは目を引く8から始まっていた。ヘッドライトが眩しく、すぐ横を音もなく駆け抜けていく。それは、個室でついた嘘を見抜かれたような、無言の嘲笑だった。
案の定、佐藤双葉が後ろからあざ笑うように声をかけてきた。「
大口叩いて恥ずかしくないの?黒沢さんの名前を出せば出すほど滑稽よ。黒沢さんの相手になりたい女なんて、山ほどいるんだから。黒沢さんがあんたのことなんて知るわけないでしょ?」
小林雪が反論しようとしたとき、ベントレーの後ろにいた車が目の前でゆっくりと止まった。
助手席の窓が開き、陸の秘書・西尾優一の顔が見える。
佐藤は一瞬で黙り込む。
田中はさらに素早く反応し、すぐさま駆け寄った。
「西尾さん!ご無沙汰しています!」と、慌ててタバコを取り出す。
西尾はそれを手で制し、視線を早川に向けた。
「早川さん、何かご用があれば、この番号にご連絡ください。」と名刺を差し出す。
早川はすぐに受け取る。
「西尾さん、もしよければ黒沢さんにお会いしたいとお伝えいただけますか?直接お礼がしたいんです。」
小林雪が小さく舌打ちする。「
まるで道化ね。」
佐藤双葉の顔は蒼白になり、慌ててタクシーを止めて立ち去った。
小林は早川とともに、皆を見送ってから自分の番になる。
「車で来たんでしょ。代行呼びなよ。何かあったら明日でいいから。」
「わかった。雪も家に帰ってゆっくりして。」
「母が帰るまで寝ないから、心配しないで。」小林が手を振り、早川はしばらくその場に立ち尽くした後、代行を呼ぼうと車のドアを開けた。
その時、違和感に気づく。助手席に置いた食事代わりのパンの袋が、さっき開けたはずなのに、きっちりと閉じている。しかも袋の中から、カサカサと異様な音がする。
早川の全身に寒気が走る。袋を掴み、車のドアをロックして外に出た。
警備員を呼ぼうと歩き出したが、すぐに後ろから足音が近づいてくる。自分を落ち着かせようと「通行人かも」と思い込むが、直感が警告を鳴らす。
突然、早川は駆け出した。ガランとした駐車場に、彼女の足音が響く。
その時、車のヘッドライトが一気に点灯し、暗闇を切り裂いた。誰かが車を降り、彼女を腕ごと引き寄せる。
「離して!」
早川は恐怖で必死に抵抗する。
「何をそんなに慌ててる?」
陸の冷静な声が響く。
早川は驚いて顔を上げた。逆光の中、彼の鋭い顎と薄い唇が浮かび上がり、眼鏡のレンズが冷たく光っている。自分のうろたえた顔がそこに映る。
「誰か……つけてきたんです。」
声が震え、彼にブロックされたことも忘れてしまう。
陸は通りかかった二人の男性を見やり、「通行人だ。気にしすぎだ。」と言った。
早川は振り返って確認したが、不安は消えない。
「私の車、誰かに触られたみたいです。」
そう言って袋を差し出す。
陸が受け取ると、強い生臭さが広がった。袋の中には瀕死のネズミが入っていた。
彼は顎をきゅっと引き締め、後ろの護衛に投げ渡す。
「彼女の車を調べて、警察に連絡しろ。」
「かしこまりました。」
早川は携帯を握りしめ、指先が真っ白になるほど力が入っていた。
「乗れ。」陸がドアを開ける。
早川はその場から動かなかった。
陸が目を細める。
「また断るのか?好きにすれば。」
しかし、彼女がそっと裾を掴んだ。潤んだ瞳で見上げながら、「動けないんです。」
「ん?」
「足が……震えて。」
陸は一瞬きょとんとし、そして呆れたように小さく笑った。
「度胸はないくせに、変なところで強気だな。」
そう言いながら、彼女を軽々と抱き上げる。
車内で、陸は彼女を自分の隣に座らせたまま離そうとしなかった。ほとんど膝の上に乗る形になる。
早川がそっと体をずらそうとした瞬間、陸の鋭い視線が飛んでくる。
「早川さん、男の体に寄りかかるのはやめてくれ。」
早川は言葉を失う。
「さっき……黒沢さん、もう帰ったんじゃ?」
さっきのベントレーを思い出す。
陸は眉を上げる。
「僕のことがそんなに気になるのか?」
「……」
早川は口をつぐみ、
「さっき通ったベントレー……」
「車は多いし、見間違えても仕方ない。」
「ずっとここにいたよ。」
陸は静かに言う。
早川はそっと頷く。
「今日は本当にありがとうございました。」
陸の表情が一気に冷たくなる。
「君のために止まっていたわけじゃない。礼はいらない。」
ただ気が滅入ってここにいただけで、待っていたわけではない――という空気だ。
場の空気が一気に凍りつく。
運転手はバックミラー越しに二人の様子をうかがいながら、おずおずと尋ねた。
「黒沢さん、お帰りになりますか?」