「六本木ヒルズのマンションまで。」
陸は緊張している遥を一瞥し、冷淡な声で指示した。
車内には重苦しい沈黙が流れていた。
陸は目を閉じて休んでいる。先ほどのような強引な振る舞いはなく、ただ遥は未だに彼の膝の上に座らされたままだ。
遥は体を強張らせ、信号待ちの間も気を抜けず、頭の中で必死に彼が納得する説明を探していた。
今夜、陸は彼女に逃げ道を与えたが、遥は無償の優しさなんて信じない。まして相手が陸――ビジネス界でも冷徹で知られる男だ。
一夜限りの関係のはずなのに、なぜ彼は何度も手を差し伸べてくるのか。
幸い、六本木ヒルズまでは遠くなく、車はすぐに到着した。
遥は動こうとして、思わず陸を見た。
外の街灯が彼の高い鼻筋を照らし、メガネが一瞬光る。陸はぱっと目を開け、鋭い視線で彼女を射抜いた。
陸は眉間を揉み、「降りろ」と短く言った。
遥はすぐにドアを開け、彼の膝からよろめきながら降り、しびれる足をなんとか立て直す。
振り返って「ありがとうございました、今度ご飯でも…」と礼を言おうとした瞬間、いきなり彼の胸にぶつかった――陸はすでに彼女の手首をつかみ、そのままマンションのエントランスへと引っ張っていく。
遥は並んで歩きながら、無意識に周囲の闇に目を走らせた。
拭いきれない恐怖の中、今唯一の拠り所は、隣にいるこの得体の知れない男だった。
「トラブルを引き寄せる才能はあるんだな。」
陸の声が静寂を切り裂く。
「伊藤裕久がどんな人間か、調べもせずに近づいたのか?あんな男に更生を期待して、裏切られたら今度は復讐か?」
その一言一言が冷たく突き刺さる。
もう遥にも強がる余地はなかった。
裕久については、正直に打ち明けた。
「彼が誠実に見えたから付き合っただけです。大人同士の付き合いですから、お互い納得していたつもりでした。評判については…本当に知りませんでした。」
陸は立ち止まり、薄暗い中でタバコに火をつけた。
「続けろ。」
まるで部下の報告を聞くような口調だ。
遥は仕方なく続けた。
「…復讐については、私にも意地があります。彼に何度も騙されて、さすがに黙っていられませんでした。黒沢さんに関しては…ごめんなさい。あなたを断った直後、あなたの力を利用して会社のトラブルを片付けたのは間違いでした。」
そう言って、目を伏せた。
陸は煙を吐き、レンズ越しにその表情は読めなかった。
彼は謝罪には反応せず、しばらく沈黙した後、皮肉めいた一言を投げた。
「本当に、見る目がないな。」
遥はその意味を理解した。
つまり、裕久のような男を選ぶくらいなら、自分のほうがずっとマシだろうということだ。だが、その「ずっとマシ」な陸こそ、簡単に手を出せない相手――
彼を怒らせたときの代償は、裕久とは比べものにならない。
二人は無言のままマンションの入り口へ。
遥が鍵を出しながら、陸が後ろに立っていることに気づいた。
「お茶はどうですか?」
できるだけ曖昧さを避けて声をかけたが、夜中に家の前まで連れてきて、すぐに追い出すのも失礼だと思った。
陸は眉を上げた。
まだ先ほどの拒絶を根に持っているらしい。
「早く開けないと、招待されたとみなすぞ。」
淡々と言う。
「バタン」と勢いよくドアが閉まった。
陸は閉まったドアを見つめ、苦笑した。
まったく、恩知らずだ。
遥はすぐには離れず、ドアののぞき穴から外を覗いた。
なんとまだ彼はエレベーターを呼ばずに立っていた。
小声で「まあ、謝ったし…さすがに伊藤さんみたいに逆上はしないはず…」と呟き、疲れがどっと押し寄せる。
ヒールを脱ぎ捨て、ソファに倒れ込んだ。
ワンルームの部屋は小さいが、清潔で温もりがある。
海外にいる親友以外で、この部屋に入った男は陸だけだ。
最近のゴタゴタを思い返し、遥は本気で転職を考え始めた。
しばらく横になったあと、寝巻きを取ろうと寝室へ向かった。
だが、寝室に足を踏み入れた瞬間、強烈な違和感に全身がこわばる――
テリトリー意識の強い彼女は、環境の変化に敏感だった。
誰かが、この部屋に入った――!
頭の中が警報を鳴らす。クローゼットを開ける勇気もなく、すぐに逃げ出そうとしたその瞬間――
突然、クローゼットの扉が大きく開き、裕久の歪んだ顔が現れた。
彼は遥の髪を乱暴に掴み、そのまま壁に叩きつけた!
「きゃあ――!」
遥の叫びは、裕久に口を塞がれてかき消される。
「やっと帰ってきたか?」
裕久の熱い息が首筋にかかる。酒臭さと悪意が混じった声で囁く。
「昔はおとなしく早く帰ってたのは、俺に触らせないためだったんだろ?待たせやがって…どこに逃げるつもりだ?言ったよな、お前を地獄に落としてやるって!」
遥は必死にもがくが、髪を強く引っ張られ、体も力任せに押さえつけられる。
「黒沢さんにはどんな風に抱かれた?」
裕久の手が背中を這い降り、下卑た声で続ける。
「お前、あいつのベッドでも尻を振って誘ったんだろ?」
屈辱と怒りで遥は体が震えた――今すぐこの男を殺してやりたいほどだった。
彼の手が腰に触れかけたその時、遥は思い切り後ろ蹴りを食らわせた!
だが裕久は予想していたように身をかわす。
それでも、遥は隙を見て彼の手に噛みついた!
裕久は痛みで手を離すが、さらに激しく遥をベッドに押し倒す。
「今夜は絶対にやってやる!その様子を全部録画して黒沢ンさんにも見せてやる!お前の写真をばら撒いてやる!どうせもう隠せないだろ!」
絶望の中、遥の頭に浮かんだのは――
さっきまで陸が玄関の前にいたこと。
だが、ソファであんなに時間が経ってしまった。もう彼はいないかもしれない。それでも遥は叫ぶしかなかった。
「助けて!!」
「あいつならもう帰ったよ!」
裕久はニヤリと笑い、遥をベッドに乱暴に投げつける。
「お前みたいに誰にでもヤラれる女なんか、もう眼中にないさ。無駄な抵抗はやめて、素直に泣き叫べよ!」