裕久に力任せにベッドへ投げつけられた瞬間、遥の視界は一瞬で暗くなった。
「まだ諦めないのか?」
裕久は不気味な笑みを浮かべながら、ベルトの金具を外す音が部屋に響いた。
「こんな夜中に、誰が助けに来るっていうんだ?」
絶望の中、遥は枕元のランプを掴み、思い切り裕久の頭めがけて振り下ろした。
「やめて!あんたなんかに触られるくらいなら、犬に噛まれたほうがマシよ!」
裕久は激怒し、ベルトを振り上げた。その瞬間、ものすごい力で蹴り飛ばされ、ベッドのヘッドボードに激しく叩きつけられた。
「クソッ!」裕久が怒鳴りながら顔を上げると、ドアの前に立つ男を見て、その怒りが一瞬で凍りついた――陸の表情は、今にも氷が滴り落ちそうなほど冷えきっていた。
陸は眉間にしわを寄せ、眼鏡を無造作に外して放り投げた。その動きは速すぎて、影すら残らないほどだった。
次の瞬間、裕久の襟元を鋭い手で掴み、そのまま床から持ち上げて、まるでゴミ袋のようにリビングまで引きずっていった。陸はテーブルの上にあった花瓶を手に取ると、迷いなく振り下ろした。
ガラスの砕ける音と裕久の悲鳴が響き、すぐに荒い息遣いだけが残った。
遥はベッドの上で固まったまま、頭の中が真っ白だった。陸が戻ってくるまで、何も考えられなかった。
部屋はめちゃくちゃで、ランプは点滅を繰り返している。乱れた髪に、頬にはくっきりと指の跡。怯えた瞳で周囲を見回す。
陸のシャツは格闘のせいでしわくちゃになっていた。眼鏡を外した瞳は、鋭く光を放っている。その鋭さを、ほんの少しだけ抑えているようだった。
「歩けるか?」と彼は尋ねる。
遥はうなずき、彼を見つめた。その目には、危機を乗り越えた安堵と頼りなさが入り混じっていた。
また、この人だった。
「荷物をまとめて。他は俺がやる。」
陸は簡潔に言い、電話をかけはじめた。
リビングでは、裕久が床に倒れ込み、うめき声を上げている。階下からは、ボディーガードたちが駆け上がってきた。
陸は寝室のドアを閉め、袖口を丁寧に直しながら視線を落とした。額にかかる髪と、わずかに緩んだシャツの襟、固く結ばれた唇。黒沢家のボディーガードたちでさえ、彼がここまで怒りをあらわにするのは久々のことだった。
エレベーターが開き、向かいの住人が様子を見に来ては、ボディーガードたちの威圧感にすぐさま引っ込んでいった。
陸はゆっくりと裕久の前に歩み寄り、磨かれた革靴を血のついた白いカーペットの端に止めた。
「なかなかやるじゃないか。」
低い声は落ち着いているが、ひとつひとつの言葉が鋭く突き刺さる。
「俺にここまでさせたのは、お前が初めてだ。」
裕久は血を流しながら顔を上げる。
陸は身を屈め、裕久の髪をつかんで後ろに引っ張り上げた。革靴のかかとで、床に突いていた裕久の指を容赦なく踏みつける。
「どの手で触った?何度触った?何をしたかった?」
ゆっくりと問いかけ、まるでその光景を頭の中で再現しているかのようだった。
返事を待たず、陸はそのまま裕久の顔を靴で踏みつけた。
もがく裕久の手足は、すでにボディーガードに押さえ込まれている。陸はテーブルの上のフルーツナイフを手に取り、刃先が鈍く光る。
「陸、やめろ!殺す気か!」
裕久の声は震えていた。
「静かに。」
陸は唇に指を当て、目はナイフよりも冷たかった。
「彼女を怖がらせたら、本当に殺すことになる。」
裕久は全身を震わせ、必死に命乞いをした。
「お願いだから許してくれ!」
「遅い。」
陸の一言で、ボディーガードが口を布で塞ぎ、あとは重い音だけが室内に響いた。
寝室で、遥は震える手で荷物を詰め込んでいた。
陸が何をしたかはわからない。ただ裕久がこの世から消えてくれれば、それでいい。あの男に触れられたことを思い出すだけで、吐き気が込み上げてくる。
リビングが静まり返った。やがてドアが開き――
遥はびくりと身を縮めた。陸がドアの前に立っている。
陸は歩み寄り、その大きな体で彼女を包み込むように抱きしめた。
大きな手が、そっと彼女の頭を撫でる。
「もう大丈夫だ。あいつは二度と現れない。」
その一言で、遥の張りつめていた心がふっと緩んだ。
「……うん。」
再び陸の車に乗り込むと、先ほどまでとはまったく違う気持ちだった。どこへ向かうかは尋ねなかった。あの部屋には、もう戻れそうになかった。
「警備が君の部屋をチェックして、証拠は警察に引き渡す。」
陸の声は穏やかだった。
遥はほっと息をついた。
「私も事情聴取に行くの?」
「明日、手配する。」
車は都心の高級住宅街へと入っていく。遥はようやく、陸が自宅へ連れてきたことに気づいた。
玄関の明かりが灯り、陸だけのプライベートな空間が目の前に広がる。何年経っても、遥はこの日の自分の決断を正しかったと思い返すことになる。
邸内は冷たくモダンな雰囲気で、さりげない部分にも高級感が漂う。廊下に飾られた数枚の絵は、遥が一瞬見ただけで、とても手が届かない代物だとわかった。
陸は彼女のスーツケースを持って階段を上がる。
「靴はそのままでいい。」
リビングは生活感がなく、モデルルームのように広々としている。廊下の突き当たりにあるゲストルームに荷物を運ぶと、陸は振り返った。
「黒沢さん……」
遥は彼の後ろにそっとついていった。
「シャワーを浴びてきなさい。」
その場に立ち尽くす彼女に、陸は一歩近づき、「警戒してるのか?」
「安心しろ。」淡
々とした口調には、ほんの少しだけ疲れが滲んでいた
「さっき暴れたばかりで、今はそんな気分じゃない。」
遥は唇を噛みしめた。
「違うの、ただ……あなたの彼女が心配で……」
「誰がそんなこと言った?」陸は眉をひそめ、彼女の驚いた顔を見て、それ以上何も言わなかった。
「その“お試し”の結果はどうだった?」
「え?」遥はきょとんとする。
陸は目線を落とし、冷たく見下ろしながら言った。
「独身同士だからといって、相手の素性も調べず選ぶとはな。呆れるほど愚かだ。」
そう言い放つと、陸は彼女の横を通り過ぎて主寝室へ入っていった。
遥はその場にしばらく立ち尽くし、自分の浅はかさと選択の過ちを痛感した。