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第12話 恋人か


ゲストルームは邸宅全体のシンプルでラグジュアリーな雰囲気を受け継ぎ、シックなダークグレーが基調。隅々まで清掃が行き届き、ほこり一つない。


遥はドアを後ろ手にしっかりとロックし、スーツケースから洗面道具を取り出してバスルームに入った。


鏡は眩しいほどに輝き、そこに映ったのは、見るも無惨な自分の顔――

さっきまで頭の中を渦巻いていた「明日、陸にどう顔を合わせればいいのか」「裕久は警察署でどうなるのか」「仕事、やめるべきだろうか」といった考えは、この顔を見た瞬間、すべて吹き飛んだ。


こんな顔で、陸の後ろについてここまで戻ってきたのか――

あのときの彼の表情が複雑だったのも、無理はない。


アイラインは滲み、口紅も下唇に擦れている。おそらく、裕久に口を押さえられた時についた跡だろう。


一方、隣のバスルームからはシャワーの音が絶え間なく響いていた。


陸はシャワーの下で、引き締まった体を伝う水流を静かに浴びている。


洗面台に置かれたスマートフォンがしつこく振動し、そのブーンという音が広いバスルームにこだましていた。水を止めた彼はバスローブを羽織り、ワイングラスに赤ワインを注いでから電話を取る。


「どうした。」


電話の向こうは騒がしく、高橋時生はまだ個室にいるようで、納得いかない様子が声ににじんでいる。


「どういうこと?送るだけじゃなかったのか?」


「陸、もしかして…本気で気にしてる?」


「男が女に手を出してるのを黙って見てろって言うのか?」

陸は抑揚のない声で聞き返す。


高橋は舌打ちし、「ごまかすなよ。俺の言いたいこと、わかってるだろ?遥、あの子はちょっと特別なんじゃないのか?…もしかして、そういうことか?」


それだけ言うと、電話を切った。


高橋はツーツーという音を聞きながら、眉をひそめる。本当に自分の勘違いだったのか?


陸は夜の闇を見つめ、眉間にしわを寄せて、今夜の選択が正しかったのか初めて疑問を覚えた。


遥は身支度を済ませたものの、ベッドに横になっても眠れなかった。


彼女は環境が変わると眠れないタイプで、この広々とした邸宅には人の気配が全くない。高価なアロマの香りが空気に漂い、ベッドもシルクのシーツも完璧だったが、どうしても落ち着かない。


目を閉じると、「陸が同じフロアにいる」という事実がやけに頭を離れない。


ついさっきまで裕久に襲われかけていた自分が、今は陸がドアを開けて入ってくるのでは、と想像してしまう。


大人の男が女を家に連れて帰って、ただおしゃべりだけで終わるとは思えない。


だが、今の自分は何も決められないまま、ただ頭が混乱していた。まさか自分から陸の部屋をノックしに行くわけにもいかない。それはあまりにもあからさまだ。


そんなふうに考えていると、足音がだんだん近づき、ドアの前で止まった。


遥は反射的にベッドから起き上がり、心臓がドクドクと鳴る。


「もう寝たか?」


陸の声だった。


遥は気を取り直し、パジャマの襟をきゅっと合わせて答えた。


「深沢さん、どうかしましたか?」


「もしケガしてたら、薬を塗っておけ。ドアの前に置いてある。」


その低くて冷たい声に、彼女はためらうことなく、裸足でひんやりした床を数歩歩き、ドアを開けた。


やはり、彼がまだそこにいた。廊下の明かりが彼の輪郭を浮かび上がらせる。まっすぐに注がれる視線に、遥はわずかに顔を上げて応じた。


彼女はもう世間知らずの少女ではない。


彼の視線を受け止め、はっきりとした声で問いかける。


「本当に…薬だけ?」


シャワーを浴びたばかりの彼は、いつものきっちりしたヘアスタイルとは違い、濡れた髪が無造作に額にかかっている。


彼は背が高く、遥が見上げると、少しはだけたバスローブの胸元と、力強い胸板が目に入る。その感触は、彼女にはもうおなじみのものだった。


彼女は赤いネイルのつま先をぎゅっと丸め、黙って待つ。


陸はほんのわずか眉を上げ、感情の読めない声で言った。


「もし薬だけじゃなかったら?」


遥は体を横にずらし、静かに言った。


「だったら、中に入って、薬を塗ってください。」


構わない。誰が拒めるだろう。


静かにドアが閉まり、外の世界と隔てられる。ベッドサイドのランプが人影に揺れ、ぼんやりとした灯りの中、二人の影が重なり合う。


肌と肌がぶつかる音と、抑えた吐息だけが静かな部屋に響いた。


遥は唇を噛み、爪を彼の広い背中に深く食い込ませる。絶頂のたびに意識が真っ白になり、魂が抜け出すような感覚に襲われた。


どうして男と女の体力差はこうも大きいのだろう。指先一つ動かすのも億劫なほど彼女が疲れても、彼は何度でも、まるで飽きることなく求めてくる。


最後の波に呑まれて彼女の意識が遠のくころ、窓の外の月は静かに沈んでいた。



見知らぬ空間でこれほどぐっすり眠ったことはなかった。朝、目覚めると隣は既に冷たくなっていた。スマートフォンを見ると、7時半。


起きて身支度を整え、ベッドシーツの痕跡を丁寧に片付ける。


部屋のドアを開けると、1階から話し声がかすかに聞こえてきた。


陸はダークカラーのスーツに身を包み、リビングのソファで書類に目を通している。隣には秘書が控えめな声で報告していた。


遥が2階の廊下に姿を見せた瞬間、陸は気配を察したのか、ちらりと視線を上げた。


「今日はここまで。」と彼は部下たちに指示し、「あとは任せる。」と手で合図した。


「かしこまりました、深沢さん。」二人はすぐに資料をまとめ、静かに部屋を出て行った。


リビングは再び静寂に包まれる。


「降りてこい。」


陸の静かだが有無を言わせぬ声に、遥は髪を耳にかけて階段を降りる。


「おはようございます。」


陸は軽くうなずき、ダイニングの方へ視線を向けた。


「朝食を食べろ。」


そこで初めて、ダイニングのテーブルに和洋折衷の朝食がずらりと並んでいることに気づいた。湯気の立つ和食に、パンやサラダ、卵料理まで揃っている。


さすが資本家の日常。自分が数分でも長く寝たいがために朝食を抜いていた日々を思い出し、遥は思わず心の中でため息をついた。


椅子を引いて座り、箸を手に取る。


「食べないですか?」


陸は手元の経済誌をめくりながら、顔も上げずに答えた。


「もう七時に食べた。」


……あまりにも規則正しい生活ぶりに、まるで精密機械みたいだと思う。


「今日、特に用事がないなら会社に休みを入れておけ。」

彼は経済誌から目を離さず淡々と告げる。

「情聴取がある。秘書が付き添うから。」


遥は小ぶりの小籠包を箸でつまみ、そっと一口かじる。中から熱々のスープが口いっぱいに広がった。


食べ終えてから尋ねる。


「彼……どれくらい留置されるの?」


陸はようやく経済誌から目を上げ、逆に問い返す。


「どれくらい留めておきたい?」


遥は黙り込む。


裕久が長く捕まることはないと分かっている。怖いのは、彼が出てきた後の報復だ。あの暴力的な目を思い出し、顔色が自然と青ざめる。


それに気づいたのか、陸の声が少しだけ和らいだ。


「心配はいらない。あの家のことは、すぐに片付く話じゃない。」

コーヒーカップを手に取り、一口含みながら続ける。

「少なくとも、もうお前を煩わせる余裕はないはずだ。」


遥は彼の意図を悟った。裕久家のホテルの不正経理の件や、裕久自身の過去の悪事――それらは十分に家を揺るがすものだ。


陸がこう言う以上、何かしらの手を打ったのだろう。


「昼は何を食べたい?」


突然の問いに、箸を持つ手が止まる。


……つまり、昼食も一緒に、ということか?


この言葉の意味を、遥は心の中で素早く計算する。


もしここで断れば、裕久の件も、彼はもう関与しないのだろうか。


これは一つの機会だ。お互いの線引きをはっきりさせる機会。


箸を置き、彼女は静かに、しかしはっきりと陸の目を見据えた。


「深沢さん。」


その声は澄んで冷静で、ためらいは微塵もなかった。


「私とセックスするのが好きで、身体の相手として私を選んだ。愛情じゃなくて、あくまで身体だけの関係。そういう理解でいいですか?」


陸の目が鋭くなり、氷のような視線が彼女を射抜く。


「だから何だ?」


身を乗り出し、テーブル越しに無言の圧力が漂う。


「間違ってなければ、毎回…」彼は言葉を区切り、強調して続けた。「お前の方からだった。」


遥はその視線を避けず、事実を受け止める。


「あなたはとても優秀なセックスパートナーだと思います。」


事実を淡々と、冷静に口にする。


「だからこそ、私たちは対等な関係だと思うんです。」


陸は無言のまま、その深い瞳で続きを待つ。


「つまり――」遥は一語一語、交渉の場で条項を述べるように言った。


「私はあなたの囲われ者でも、愛人でもありません。お金や物を受け取るつもりはありませんし、お互いの生活に深入りもしません。」


彼女は一度言葉を切り、まっすぐ彼を見据える。


「必要なときだけ、連絡して日程を合わせるか、あるいは都合のいいタイミングを決めましょう。それで、どうでしょうか?」


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