陸は手にしていた経済誌を静かに置き、鋭い視線を遥に向けた。その表情には、わずかな意外さが隠れている。
「俺の恋人かセフレか、選ぶなら後者を選ぶのか?」
彼の声は淡々としていて、感情は読み取れない。
遥は、彼がこう反応することを予想していた。
陸の恋人になるということは、これまで想像すらできなかった人脈や資源に手が届くということだ。彼が自分に飽きるまでの間に、人生を大きく変えるチャンスを得ることもできるだろう。たとえ別れたとしても、陸の立場なら、彼女に与えられるものは一般人の一生分よりも十分だ。
まさに、目に見える近道だった。
だが、滑稽なプライドや未知への警戒心から、彼女は決して自分の未来を他人の手に委ねることを良しとしなかった。
身体の相性以外、陸という人間を彼女はほとんど知らない。肉体的な快楽だけで「恋人」という枷を自ら進んで受け入れることはできなかった。
「はい。」
遥は彼の視線を受け止めながら、はっきりと答えた。
「もしこの関係を続けたいのであれば、私はセフレとしてしか受け入れません。」
陸は少し眉をひそめた。
「贈り物も全部断るつもりか?」
「できるだけ受け取りたくありません。」
「私たちが求めているのは体だけです。プレゼントは何らかの関係を維持するためのもので、別れた後はかえって面倒ですから。」
「それとも、私と本気で付き合いたいんですか?」
遥は逆に問い返した。
陸は答えなかったが、その冷たくなった表情が、彼の立場をはっきりと示していた――その気はまったくない。
遥は言葉を選びながら口を開く。
「深沢さんの体……」
「私にとっては十分な“プレゼント”です。ストレス発散には最高の……新しい方法だと思っています。」
男の前でここまで率直に能力を褒める女は、なかなかいない。陸は少し呆れを感じた。
裕久レベルの男でも元カレになれるのに、自分はただのセフレ扱いか?
何とも言えぬ苛立ちがこみ上げる。
陸は勢いよく立ち上がり、椅子の背にかかっていたジャケットを手に取ると、冷たく言い放った。
「好きにしろ。」
「バタン!」という音とともに、ドアが大きく閉まる。
遥は一瞬驚いたが、それ以上考え込むことはなかった。静かに朝食を終え、二階に上がって自分のスーツケースを取ってきた。
リビングに降りると、タイミングよく陸の秘書・西尾が入ってきた。彼はすぐに口を開く。
「早川様、現在お住まいのマンションはまだ捜査中で、警察による封鎖が解かれておりません。」
遥は手を止めて、「深沢さんの指示ですか?」と尋ねた。
西尾はにこやかに微笑むだけで、答えなかった。
遥はスーツケースの持ち手を離し、「じゃあ、行きましょう」と応じた。陸が今すぐ出ていけと言わないということは、彼女の提案を黙認したということだ。
大人同士、利害が一致しただけのことだ。そこに恥じるべきことなどない。
外にはすでに車が待機していた。
昼間の別荘地は緑が美しく、夜とはまったく違う表情を見せている。
車に乗り込むと、西尾が一通の書類を差し出した。
「こちらは、昨夜の裕久の警察での供述調書のコピーです。彼の父親、裕久健もすでに身柄を確保されています。他のことはお任せください。今は昨夜の住居侵入未遂と、長期間のストーカー行為の二つの容疑が重要です。」
遥は書類をめくり、そこに「ただの恋人同士の冗談」「ちょっとした悪ふざけ」と書かれているのを見て、冷笑した。
「私はどんな形でも示談には応じません。」書類を閉じ、きっぱりと告げた。
「必ず法の手続きを取ります。」
西尾はうなずいた。
「深沢様からも、早川様の意志を尊重し、最高の弁護士チームを手配するよう指示されています。」
遥の心に微かな感謝が湧く。今回の件で彼女は確かに陸の世話になった。あの助けを求めるメッセージがなければ、彼が巻き込まれることもなかっただろう。裕久健の排除は三原ホテルにとっては利益だが、深沢財団には直接的なメリットはない。
「一応、深沢さんに感謝しておきます。」
西尾は助手席で無言のままだった。
警察署が近づくと、彼は再び口を開いた。
「伊藤さんの母親が昨夜からこちらに来ていて、かなり取り乱していらっしゃいます。早川様、できるだけ直接対決は避けてください。」
遥はその人についてあまり印象がない。ただ、かつて裕久と街で偶然会った際、上から目線の態度だけは記憶に残っていた。
「ぶつかるかどうかは、相手次第です。」
「私は誰かを挑発した覚えはありません。」
とはいえ、裕久のような息子を育てた親だ、まともな人物ではないだろう。
西尾とともに警察署のロビーに足を踏み入れた瞬間、鋭いハイヒールの音が大理石に響き渡った。
「アンタがうちの息子を訴えた女か!」
甲高い声がロビーの静けさを切り裂く。
遥が振り向くと、華やかなメイクに上質な服を身にまとった中年女性が、派手なダイヤの指輪をはめた手を振り上げ、勢いよく遥の頬を打とうとした!
西尾が慌てて止めようとしたが、遥は素早く相手の手首をつかみ、冷たい目でじっと見下ろしながら、力強く押し返した。そして手を振り払うと、まるで汚れたものに触れたかのような仕草を見せた。
遥の声は凛と響き、ロビーにいた人々が一斉に振り返る。
「公然と暴力をふるって、法を無視するつもりですか?」
伊藤さんはよろめきながらも踏みとどまり、怒りに震えながら遥を罵倒した。
「しらじらしい!あんた、わざと息子を陥れたんでしょ?なんてひどい女なの!」
「裕久さん、ここで喚くより、まずは息子さんが何をしたかちゃんと聞いたらいかがですか。」
「違法行為をしていなければ、私が訴える理由なんてありません。」
「きれいごと言って!結局は金がほしいんでしょ!」
「いくら払えば取り下げるのか言いなさいよ!そんな芝居じみたことして!」
遥は、止めようとする警官に毅然とした口調で言った。
「ご覧の通り、これは私への侮辱と脅迫、さらに金銭で司法を曲げようとする行為です。私は法律だけを信じています。正当に裁かれることを望みます。」
この一部始終は、西尾の報告によって陸にも伝わることになる。
そのころ、陸は最上階のオフィスで、西尾からの報告メッセージを静かに聞いていた。
そこへ高橋時生がドアを開けて入ってきた。
「深沢さん、今日は暇そうですね?」
陸が顔を上げる。
「いや~、こっちも大変でさ。」
高橋はソファに座り、足を組み替えた。
「昨夜の一件で伊藤親子が揃って中に入ったって噂、すぐに広まってるよ。知り合いからも色々聞かれて困ったもんだ。裕久の投資案件、どうなるか心配してる奴もいるけど、まあ、金額は大したことないけどね。で、結局どうなる?」
陸はコーヒーを一口飲み、パソコンの画面を見たまま答えた。
「違法なことをしたなら罰を受ける、それだけだ。特別なことじゃない。」
高橋は納得したように、車の鍵をテーブルに放り投げた。
「なるほど、しばらくはあの坊やもおとなしくしてるしかなさそうだな。」
裕久の裏の顔を知る高橋が、陸に頼みごとをするはずもない。
「そういえば、三浦たちが午後、クルージングを企画してるらしいよ。新しい彼女の誕生日だとか。行く?」
陸の脳裏に遥の姿がよぎる。彼女の件もそろそろ終わる頃だろう。
「予定がある。」
そうだけ答え、再び書類に視線を落とした。