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第14話 あの件


事情聴取が終わると、西尾は腕時計に一瞬目を落とす。

「早川さん、今後の手続きはすべて手配済みですので、私は会社に戻ります。運転手さんは残しておきますか?」


陸の秘書として、西尾のスケジュールは常に分刻みだ。今日の件に半日も付き合ったのは異例で、彼にはまだ処理すべき仕事が山積みであることは明白だった。


「大丈夫、一緒に帰って。」

早川の返事は予想通りだった。


西尾は小さくうなずき、去り際に念を押す。

「お昼の深沢さんとのランチ、忘れないでください。」


「ありがとうございます。」

早川はようやくそれを思い出した。


西尾が去った後、早川は道路脇に立ち尽くした。日に照らされた顎と首筋の痣が一層目立つ。スカーフで首を何とか隠したが、顔の傷までは隠しきれない。


今朝、田中次長に休暇を申請したとき、彼は珍しくあっさりと許可した。


まだ半日残っている。


とりあえず自分の小さなアパートに戻ることにした。昨夜は慌ただしく出てきたし、陸の部下が中に入っているはずだ。その部屋は狭いけれど、毎月ローンを返しながら一つひとつ積み上げてきた自分の家だ。


だが、その計画は一本の電話で中断された。


「おばさん」からの着信を見て、早川は努めて明るく電話を取った。


「おばさん?」


「今ちょっといい?」

受話器越しの声には不安がにじんでいる。


早川はすぐに表情を引き締めた。

「大丈夫よ。何かあったんか?」


「私は大丈夫なんだけど、みほが……学校で喧嘩してしまって。相手の子は心臓が弱くてね。悪いけど、病院に行ってもらえない?」


「わかった、心配しないで。」


電話を切ると、早川はすぐにタクシーをつかまえて病院へ向かった。


消毒液の匂いが無言の網のように、うつむき加減の人々を包みこみ、呼吸するだけで息苦しくなる。できることなら、二度と足を踏み入れたくない場所だ。


救急外来のベンチで大森みほを見つけたとき、みほはまるで嵐に巻き込まれた子猫のようだった。制服はぐしゃぐしゃ、髪は鳥の巣のように乱れ、濃いメイクは涙で滲んでいる。周囲の視線をものともせず、首を張って不機嫌そうに座っていた。


「みほ!」

早川は足早に近づき、低い声で呼びかけた。


みほは顔を上げ、誰かを確かめると眉間にしわを寄せた。

「なんであんたなの?呼んでないよ。どうせまた“おばさん”の差し金でしょ?自分のこと、私の母親とでも思ってるの?余計なことしないでよ!」


早川の顔色が一瞬で険しくなった。

「やめなさい。もう一度言うけど、愛人呼ばわりしないで。私たちはあなたの家から一円ももらってない。」


「好きで一緒になった?そんなの嘘に決まってるじゃん!お母さんが言ってたわ。おばさんがパパを誘惑して、離婚させたって!」


早川はバッグをベンチに叩きつけた。

「そんなにお母さんが偉いなら、どうして今ここに迎えに来ないの?」


みほは急にしゅんとして、目に涙を浮かべたまま強がってみせる。

「…忙しいだけよ。」


「麻雀でもしてるの?」

早川は冷たく言い放った。

「あんたも分かってるはずよ。おばさんがどれだけあんたのこと気にかけてるか。あの人が我慢してるのはお父さんのため。私は何の義理もないからね。次、もし迷惑かけたら、警察に突き出してやるから!」


みほは一瞬目をそらし、少し大人しくなった。

「本当に…捕まるの?」

「医者に確認したけど、相手はバレエをやってる子。階段から突き落としたんだって?もし足でも折れて一生踊れなくなったら、あんたどう責任取るの?」


みほは真っ赤な顔で反論しかけた。

「誰も、そんなに弱いなんて思わなかったし…」


「甘ったれるな!」

早川はさえぎった。

「あとでちゃんと謝りなさい。これは遊びじゃない、人の人生がかかってる!」


「捕まる」その一言が効いたのか、みほはようやく黙り込み、しょんぼりとついてきた。


早川は、特別室のドアをノックした。


事前に調べておいたが、相手の家はかなり裕福らしい。だが、こんなに露骨にそれを感じるとは思わなかった。


中には西坂弘也が窓際に立っていた。こちらに気づくと、興味深そうに眉を上げた。


裕久に連れて行かれた数回の飲み会で、西坂弘也と顔を合わせたことがある。初対面は銀座のクラブ「月華」だった。


「西坂さん。」

早川はバッグの持ち手を握りしめ、みほのことを心の中で何度も罵った。


他の人間なら、西坂は顔を上げることもなく追い返しただろう。


だが早川には――


彼は指先で金属製のライターを回し、カチリという音を立てた。


早川は言葉を選びつつ答える。

「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。何かできることがあれば、精一杯対応させていただきます。」


西坂は眉をひそめる。

「うちの叔父には娘は一人だけ。家族みんな、宝物のように大事にしてる。今後、バレエはおろか、普通に歩けるかさえ分からない。どう償うつもりだ?」


みほもさすがに西坂の迫力に押され、俯いたまま一言も発しない。


早川は唇をきつく結び、必死に考えを巡らせる。


「あなたたち、どういう関係?」

西坂が突然問いかけた。


早川は一瞬戸惑った。

「妹のようなものです。」


西坂は皮肉気にみほを一瞥した。

「その“妹”、全然あなたのこと尊敬してなさそうだけど。」


「西坂さん、家族みんな、この件は本当に反省しています……」


「君は外に。」

西坂は顎でみほを示し、目は早川をしっかりと見据えていた。

「君の“お姉さん”と、二人きりで話がしたい。」


みほは解放されたように部屋を飛び出し、すべての厄介事を早川に押し付けた。もしおばさんがいなければ、こんな恩知らずの面倒など一秒たりとも見たくない。


特別室の中は、患者用の個室と家族控室に分かれている。


扉が閉まり、室内には西坂と早川だけが残った。


西坂は深々とソファに身を沈め、足を投げ出している。その余裕ある姿勢には、どこか威圧感が漂っていた。彼は早川をじっと見つめながら、指先でライターを止める。


「伊藤の件――」

「君が関わっているんだろう?」


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