事情聴取が終わると、西尾は腕時計に一瞬目を落とす。
「早川さん、今後の手続きはすべて手配済みですので、私は会社に戻ります。運転手さんは残しておきますか?」
陸の秘書として、西尾のスケジュールは常に分刻みだ。今日の件に半日も付き合ったのは異例で、彼にはまだ処理すべき仕事が山積みであることは明白だった。
「大丈夫、一緒に帰って。」
早川の返事は予想通りだった。
西尾は小さくうなずき、去り際に念を押す。
「お昼の深沢さんとのランチ、忘れないでください。」
「ありがとうございます。」
早川はようやくそれを思い出した。
西尾が去った後、早川は道路脇に立ち尽くした。日に照らされた顎と首筋の痣が一層目立つ。スカーフで首を何とか隠したが、顔の傷までは隠しきれない。
今朝、田中次長に休暇を申請したとき、彼は珍しくあっさりと許可した。
まだ半日残っている。
とりあえず自分の小さなアパートに戻ることにした。昨夜は慌ただしく出てきたし、陸の部下が中に入っているはずだ。その部屋は狭いけれど、毎月ローンを返しながら一つひとつ積み上げてきた自分の家だ。
だが、その計画は一本の電話で中断された。
「おばさん」からの着信を見て、早川は努めて明るく電話を取った。
「おばさん?」
「今ちょっといい?」
受話器越しの声には不安がにじんでいる。
早川はすぐに表情を引き締めた。
「大丈夫よ。何かあったんか?」
「私は大丈夫なんだけど、みほが……学校で喧嘩してしまって。相手の子は心臓が弱くてね。悪いけど、病院に行ってもらえない?」
「わかった、心配しないで。」
電話を切ると、早川はすぐにタクシーをつかまえて病院へ向かった。
消毒液の匂いが無言の網のように、うつむき加減の人々を包みこみ、呼吸するだけで息苦しくなる。できることなら、二度と足を踏み入れたくない場所だ。
救急外来のベンチで大森みほを見つけたとき、みほはまるで嵐に巻き込まれた子猫のようだった。制服はぐしゃぐしゃ、髪は鳥の巣のように乱れ、濃いメイクは涙で滲んでいる。周囲の視線をものともせず、首を張って不機嫌そうに座っていた。
「みほ!」
早川は足早に近づき、低い声で呼びかけた。
みほは顔を上げ、誰かを確かめると眉間にしわを寄せた。
「なんであんたなの?呼んでないよ。どうせまた“おばさん”の差し金でしょ?自分のこと、私の母親とでも思ってるの?余計なことしないでよ!」
早川の顔色が一瞬で険しくなった。
「やめなさい。もう一度言うけど、愛人呼ばわりしないで。私たちはあなたの家から一円ももらってない。」
「好きで一緒になった?そんなの嘘に決まってるじゃん!お母さんが言ってたわ。おばさんがパパを誘惑して、離婚させたって!」
早川はバッグをベンチに叩きつけた。
「そんなにお母さんが偉いなら、どうして今ここに迎えに来ないの?」
みほは急にしゅんとして、目に涙を浮かべたまま強がってみせる。
「…忙しいだけよ。」
「麻雀でもしてるの?」
早川は冷たく言い放った。
「あんたも分かってるはずよ。おばさんがどれだけあんたのこと気にかけてるか。あの人が我慢してるのはお父さんのため。私は何の義理もないからね。次、もし迷惑かけたら、警察に突き出してやるから!」
みほは一瞬目をそらし、少し大人しくなった。
「本当に…捕まるの?」
「医者に確認したけど、相手はバレエをやってる子。階段から突き落としたんだって?もし足でも折れて一生踊れなくなったら、あんたどう責任取るの?」
みほは真っ赤な顔で反論しかけた。
「誰も、そんなに弱いなんて思わなかったし…」
「甘ったれるな!」
早川はさえぎった。
「あとでちゃんと謝りなさい。これは遊びじゃない、人の人生がかかってる!」
「捕まる」その一言が効いたのか、みほはようやく黙り込み、しょんぼりとついてきた。
早川は、特別室のドアをノックした。
事前に調べておいたが、相手の家はかなり裕福らしい。だが、こんなに露骨にそれを感じるとは思わなかった。
中には西坂弘也が窓際に立っていた。こちらに気づくと、興味深そうに眉を上げた。
裕久に連れて行かれた数回の飲み会で、西坂弘也と顔を合わせたことがある。初対面は銀座のクラブ「月華」だった。
「西坂さん。」
早川はバッグの持ち手を握りしめ、みほのことを心の中で何度も罵った。
他の人間なら、西坂は顔を上げることもなく追い返しただろう。
だが早川には――
彼は指先で金属製のライターを回し、カチリという音を立てた。
早川は言葉を選びつつ答える。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。何かできることがあれば、精一杯対応させていただきます。」
西坂は眉をひそめる。
「うちの叔父には娘は一人だけ。家族みんな、宝物のように大事にしてる。今後、バレエはおろか、普通に歩けるかさえ分からない。どう償うつもりだ?」
みほもさすがに西坂の迫力に押され、俯いたまま一言も発しない。
早川は唇をきつく結び、必死に考えを巡らせる。
「あなたたち、どういう関係?」
西坂が突然問いかけた。
早川は一瞬戸惑った。
「妹のようなものです。」
西坂は皮肉気にみほを一瞥した。
「その“妹”、全然あなたのこと尊敬してなさそうだけど。」
「西坂さん、家族みんな、この件は本当に反省しています……」
「君は外に。」
西坂は顎でみほを示し、目は早川をしっかりと見据えていた。
「君の“お姉さん”と、二人きりで話がしたい。」
みほは解放されたように部屋を飛び出し、すべての厄介事を早川に押し付けた。もしおばさんがいなければ、こんな恩知らずの面倒など一秒たりとも見たくない。
特別室の中は、患者用の個室と家族控室に分かれている。
扉が閉まり、室内には西坂と早川だけが残った。
西坂は深々とソファに身を沈め、足を投げ出している。その余裕ある姿勢には、どこか威圧感が漂っていた。彼は早川をじっと見つめながら、指先でライターを止める。
「伊藤の件――」
「君が関わっているんだろう?」