西坂弘也の問いは予想外で、裕久に向けられた。
遥は一瞬身構えたが、表情には動揺を見せずに答えた。
「まあ、少し関係はあるわ。」
西坂はそれ以上追及せず、俯いてタバコに火をつけた。白い煙が静かに立ち昇る。
煙越しに向けられた彼の視線は、まるでフックのように遥の顔から足首までゆっくりと滑っていく。その目は決して賞賛ではなく、値踏みするような、品定めの視線で、居心地の悪さが露骨に伝わってくる。
遥は冷たい人間だ。それは他人を寄せつけない氷のような冷たさではなく、どこか距離を感じさせる澄んだ冷ややかさだった。
だが、その個性こそ、浮ついた世界を見慣れた西坂弘也にとってはかえって新鮮だった。しかも、彼女の整ったスタイルは、あの厳しい業界でも際立っていた。
何より、西坂は商売人であり、見る目は鋭い。
彼はあの日クラブで、陸が遥に向けた視線を忘れられなかった――あれはただの遊び相手を見る目じゃなかった。まるで「自分のもの」と言わんばかりの独占欲が滲んでいた。
「賠償金?」
西坂は煙を払って、天気の話でもするかのように軽い口調で言った。
「うちにとっては、そんな金はどうでもいい。ただ、君の顔を立てて、あの安物の妹を警察に突き出さないだけだよ。」
思わぬ展開に、遥は少し驚きながら聞き返す。
「つまり……西坂さんのご意向は?」
西坂は口元に曖昧な笑みを浮かべ、ある名を口にした。
「陸の顔だ。」
それが答えだった。そうでなければ、西坂家ならみほをただでは済ませず、学生どころか前科者にして、人生を一瞬で潰すこともできただろう。
遥は、まさかそれが理由とは思いもしなかった。
「条件は、僕が直接陸と話す。」
西坂はタバコを挟んだ指で入口を指し、「叔母が主治医のところに行っている。今のうちに、連れて帰れ。遅くなれば、僕もどうにもならない。」
遥は感謝の言葉を簡潔に述べた。
「西坂さん、このご恩は忘れません。」
西坂は意味ありげな笑みを浮かべ、彼女の後ろ姿を見送りながら、携帯を手に取ってメッセージを送った。
病室の外では、みほ若曦が壁にもたれてスマホをいじり、友達とのグループチャットで愚痴でもこぼしているのだろう。音声メッセージが流れ、向こうで今夜どこに遊びに行くか尋ねている。
足音に気づき、みほは顔を上げて遥を見た。大きなガムを膨らませて挑発的に言う。
「終わった?もう帰れる?」
遥は彼女に視線すら向けず、「こんな面倒に首突っ込まなきゃよかったわ」と吐き捨てるように言い、エレベーターへ向かった。
みほ若曦は一瞬呆気に取られたが、すぐに追いかけてきた。
「ちょっと!どういう意味?私が迷惑かけたって言いたいの?誰も頼んでないし!」
エレベーターが開き、遥は乗り込んで開ボタンを押しながら、みほ若曦を上から下まで一瞥し、嘲るように言った。
「ふん、私の前でだけ強がっても意味ないよ。外の世界じゃ、誰かの指一本で潰される。子供だと思って好き勝手言うのも、ほどほどにしな。誰も借りなんてない。私だって来たくて来たわけじゃない。次は、もし人を轢き殺しても自分でケリつけなさい。その時は拍手してあげるから。」
みほは、遥の冷静で取り付く島もない態度が大嫌いだった。いつも見下されているようで、余計に腹が立つ。
彼女はスマホを取り出し、カメラを遥に向けて叫んだ。
「何よ、その気取った態度!さっきの男が君をどう見てたか、わからないとでも?値踏みされてただけでしょ、うちの叔母と同じじゃない!」
遥は避けずに腕を組んで見返し、淡々と返した。
「へえ?どんな目で?聞かせてよ。」
「商品を品定めする目よ!」
みほ若曦は思春期特有の毒を込めて叫ぶ。
「あんたみたいな女、家族みんなそうやって生きてるんでしょ!」
遥は鼻で笑った。
「そうやって生きるにも、それなりの価値がないとね。君には無理、妬んでるだけでしょ。」
みほは顔を真っ赤にして怒りで足を踏み鳴らした。
エレベーターの扉がゆっくり閉まる。
「不満なら、今日君の尻拭いしたのも、君が見下してる人間だよ。私なら、恥ずかしくて生きていけないね。」
「ビッチ!」
みほ若曦の叫びはエレベーターの扉に遮られた。
金属の扉が完全に閉まり、狭い空間に機械音だけが響く。
遥はそれまでピンと張っていた背筋を、わずかに緩めた。ハイヒールで歩き回ったせいで足首が痛む。小さく息をつき、こめかみを優しく押さえた。
今や、遥にとって叔母が唯一の肉親。できる限り、叔母を困らせたくなかった。だが、みほの性格は、譲れば譲るほどつけあがる。
エレベーターが一階に到着した。
扉が開くと、遥はすでに完璧な所作と姿勢で、病院の慌ただしい人波を逆らうように出口へと歩き出す。
玄関に着いて初めて、いつの間にか雨が降り出していたことに気づく。
細かな雨が地面を濡らしている。
濡れた地面を見下ろしながら、遥は自分の足元のラムスキンのハイヒール――普段は大事な場面でしか履かない――が、今日で完全に駄目になったことを悟る。
雨の中を駆けるか、止むのを待つか迷っていると、スマートフォンが鳴った。
「早川さん。」
西尾だった。
「西尾さん。」
西尾の声は冷静だったが、どこか気遣いが滲む。
「何か、トラブルでも?」
彼はそっと窓際で待つ陸の様子を気にしていた。
正直、陸を待たせる相手は、重要なクライアント以外いない。遥が、初日から調子に乗るような女性ではないことも分かっていた。
遥は、昼の約束を思い出した。
一瞬で考えをまとめ、申し訳なさと少しの高揚を交えて言った。
「西尾さん、急にですが、今日の夜は私が直接、深沢さんに手料理を作りたいんです。お詫びとお礼を兼ねて。」
一瞬の沈黙の後、西尾は少し声を落として聞き返した。
「本気ですか?」
「はい。こちらも少しトラブルがあって。心配しないでください、後で私から直接、深沢さんに説明します。」
西尾はほっとしたように答えた。「分かりました。」
数分前、陸は西坂弘也からのメッセージを受け取っていた。
彼の表情は変わらないままだったが、遥からのボイスメッセージが届くと、初めて微かに反応を見せた。
女性の控えめで少し照れた声がスピーカーから流れる。
「ごめんなさい……ちょっと急用ができて、今日のお昼はドタキャンになりそう……。夜、ご飯作ってお詫びします。何が食べたい?」
陸自身も気づかぬうちに、さっきまでの苛立ちがその声で不思議と和らいでいった。
彼はスマホの画面に「なんでも」とだけ打ち込んだ。
遥はその返信を見て、得意料理を頭の中で素早く思い描いた。もし変わったものをリクエストされたらどうしよう――と一瞬だけ考えた。
「できるだけ頑張ります。満足してもらえるように」と返した。
数秒後、スマホがもう一度震えた。今度はボイスメッセージ。
遥は病院ロビーの隅、少し静かな場所に移動して、それを再生した。
男の低く、かすれた声が、まるで電流が流れるように耳元で響く。ひとつひとつの言葉がフックのように耳の奥に突き刺さり、かすかな震えを残した。
「一番食べたいのは、君だ。」