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第16話 野良猫


陸の率直な一言が耳元に残り、遥は一瞬言葉を失った。握りしめたスマートフォンを持つ手に、自然と力が入る。


ちょうどその時、電話が切れた。ほっと息をついた矢先、病院の柱の陰から二人の大柄なスーツ姿の男性がまっすぐこちらに歩み寄ってくるのが視界の端に映った。


裕久の件の影が一気に蘇り、背筋がぞくりとする。思わず病院に戻って警察に通報しようかと身構えた。


だが、相手の歩みは早く、あっという間に目の前に立った。礼儀正しい口調で言う。

「早川さん、斎藤からの指示でお迎えに参りました。雨も強くなっておりますし、傘もお持ちでないかと。」


遥は戸惑いながら聞き返す。

「斎藤さんの指示?ずっと私を見ていたの?」


一人の男が少し気まずそうに答えた。

「私たちは深沢グループと長くお付き合いのある警備スタッフです。今は念のための対応でして、ご安心ください。必要以上にお邪魔はしません。」


監視されているような居心地の悪さはあったが、今の状況では仕方がないと遥は割り切る。


「深沢さんの別荘までお願いします。」

少し間を置いて続ける。

「途中でスーパーに寄ってください。」


「かしこまりました。」


車に乗り込んでから、遥は叔母にLINEで簡単に状況を伝えた。みほ若葉のことはしっかり反省させるべきだと釘を刺し、できれば叔母自身が連れて謝りに行くよう伝えた。


叔母からの返信はすぐに届いた。

「分かったわ遥ちゃん。ところで、体調は大丈夫?」


遥は画面を見つめながら、鼻の奥がつんとしたが、短く「大丈夫」とだけ返した。


ちょうどその頃、陸は急な会議が入り、斎藤から遥に連絡が入った。スーパーの生鮮コーナーで昼食を済ませた後、夕食の材料を選び始めていたところだった。


「大丈夫です、お待ちします。」

遥は応じた。ああいう場ではろくに食事もできないだろう。



別荘に戻り、玄関で靴を履き替えようとした時、ふと目が止まった。靴箱にはピンク色の柔らかいスリッパが並び、陸の濃いグレーのものとお揃いで、サイズもぴったりだ。不意に誰か来ていたのかと家中を見て回ったが、やはり自分一人しかいない。


ゲストルームのバスルームには新品の洗面用具が整然と置かれ、普段使いのブランドと全く同じ。ドレッサーのスキンケア用品も一式そろっている。


まるでここで長く過ごすことを、誰かが静かに認めているかのようだった。


スマホが鳴り、陸からLINEが届く。

「退屈なら地下のシアタールームを使って。今夜は遅くなる。」


「分かりました」とだけ返す。


荷物を置き、部屋着に着替え、遥は食材の下ごしらえを始めた。


まだ夜まで時間がある。初めてじっくり別荘を見て回ると、二階建てかと思っていた建物にエレベーターで降りると、温水プールや本格的なトレーニングルーム、三面ガラス張りのプライベートライブラリーが広がっていた。光が差し込む静かな空間だが、主人はあまり使っていないらしい。


書斎は避けたものの、廊下の奥で音楽室を見つけ、そっと扉を開ける。白布をかぶせたピアノがひっそりと佇んでいた。遥は視線を落とし、静かに扉を閉めて立ち去った。


シアタールームでは、ゆったりとした映画を選び、ブランケットにくるまりながら、いつの間にか眠りに落ちた。


夜が更けていく。


酒席では、誰も陸に気軽に酒を勧めようとしなかった。


彼はスマホを見つめ、無意識に指先で画面をなぞる。


「深沢さん、今夜はどうも上の空のご様子ですが、何かご心配でも?」と誰かが探りを入れた。陸には決まった女性がいないことで有名なので、恋愛沙汰を疑う者はいない。


「大したことじゃないよ。」

グラスを口に運びながら、淡々と答える。

「昨夜、野良猫を拾ったんだ。家で退屈してないか心配でね。」


「野良猫」という言葉の意味を察した者たちは、互いに意味ありげな視線を交わし、これ以上は誰も余計な話題を持ち出さなかった。


陸はネクタイを緩め、帰宅したのは深夜だった。


ダイニングには、ラップをかけた料理がいくつか静かに並んでいる。


一瞥すると、肉じゃが、にしんなす、さっぱりしたサラダが二品。どれも好みに合っているが、すっかり冷めてしまっていた。


まずゲストルームを確認したが、ベッドは整えられ、誰もいない。


少し眉をひそめ、気配を探しながら部屋を一つずつ見て回る。最後に暗がりのシアタールームで、ソファの奥で眠る彼女を見つけた。


メイクを落とした頬はスクリーンの青白い光に照らされ、柔らかく白い。ほんのり紅い唇が呼吸に合わせてかすかに動き、白い足首はブランケットの中に丸まっている。


陸は喉を鳴らし、彼女を抱き上げようと身をかがめた。


遥は気配に気づいたのか、ぼんやりと目を開け、すぐ近くの彼の顔を見つめる。眠気混じりに眉を寄せ、不満げに呟いた。

「料理、冷めちゃった……」


こんな素直で少し拗ねたような言い方は、普段の遥なら絶対にしない。


陸の目がわずかに暗くなる。酒のせいか、声も少しかすれている。

「温め直すよ。」


遥は自分で体を起こし、目をこすった。彼の体から漂う、濃い酒の香りにすぐ気がついた。


「何の酒か分かる?」と陸が眉を上げて尋ねる。

実際はそれほど飲んでいない。


遥はホテル勤務で、ソムリエの訓練も受けている。


鼻を近づけて、残った香りを確かめる。

「ロマネ・コンティ……かな?」


陸は低く笑い、突然顎をつかんでキスを落とした。酒の香りを纏ったそのキスは、少し荒っぽく唇を貪り、息が乱れたところで急に離れる。

「何年ものか分かる?」


遥はキスにぼうっとし、きょとんと彼を見上げた。


彼はさらに顔を寄せ、額を彼女の額にそっと重ねて熱い息を吹きかける。

「一回間違えたら、一回キス、でどう?」


遥は顔を赤らめ、押し返した。

「どうやってもあなたの得じゃない。」


陸は再びキスしようとし、遥は慌てて顔をそらしてたしなめる。

「先にご飯。」


その言葉には、今夜の残りの時間を彼に預けるという無言の承諾が込められていた。


彼は無理強いする人間ではなく、素直に彼女を横抱きにしてリビングへと運ぶ。


「どうしてこんな手の込んだ料理を?」と彼が尋ねる。


遥は彼の首に腕を回し、スーツ越しにたくましい腕や胸板のぬくもりを感じる。


正直、陸の外見はかなり魅力的で、女性から人気があるのも当然だ。見た目だけなら、遥自身も引けは取らないと思っている。


「気に入らなかった?」と遥が問い返す。


陸は珍しく口角を上げた。朝のぎこちなさは、今やすっかり消えている。


「気に入ったよ。」


リビングで彼女を大きなソファに座らせると、そのまま体を近づけた。


遥は両手で彼の胸を押し返し、シャツ越しに伝わる体温と鼓動を感じる。


「まずはシャワー浴びてきて。」

遥はきっぱりと言い、譲らない様子だ。


陸は動きを止め、しばらくじっと見つめたあと、仕方なさそうに溜息をついた。

「分かった。」


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