陸は静かに階段を上がり、ほどなくしてバスルームから水音が聞こえてきた。
遥は気持ちを落ち着かせ、冷えきった料理を一皿ずつキッチンに運び、温め直し始めた。
キッチンの入口に背を向けて、髪を無造作にまとめたゆるいお団子からは、細い首筋がのぞいている。柔らかなコットンのルームウェアが、彼女の華奢な肩の輪郭を優しく包んでいた。
背後から静かな足音が近づいてくる。
陸が、まだ濡れた髪と共に浴室の涼しげな空気をまとって彼女に歩み寄る。その視線は、うなじに垂れる数本の髪にとまった。
彼は何気なく手を伸ばし、指先で崩れかけた髪留めを外す。軽くウェーブがかった髪がふわりとほどけ、滝のように肩に流れ落ちる。何本かの髪が彼の手のひらをかすめ、ふんわりとしたシャンプーの香りが漂った。
その冷たくなめらかな感触は、一瞬で消える。
遥が振り向こうとした瞬間、優しい力が肩をそっと押し戻す。キッチンの滑らかなカウンターには、彼が半ば彼女を抱きしめるような影がぼんやり映っていた。
「どうしたの?」と彼女は首をかしげる。
陸の静かなまなざしが彼女の顔に注がれ、言葉にしきれない思いが込められている。
しばらくして、彼は少し身を屈め、顎を自然に彼女の肩に乗せた。その仕草はあまりに親密で、まるでずっと前からこうしてきたかのようだ。
「他にどんな料理ができる?」と、彼は耳元で穏やかに尋ねる。その息遣いが彼女の耳にかかる。
「一通りは作れるけど、特に得意ってわけじゃない。大学の時、レストランでバイトして覚えたんだ」と遥は鍋の火加減を見ながら答えた。
陸は彼女の耳たぶを指先でそっとつまむ。
もっと親密なこともしてきたのに、こうした小さな触れ合いの方が、なぜか遥の耳は熱くなり、顔を向けることすらためらわれた。
キッチンには料理の香りが広がっていく。
陸は腕を彼女の腰に回し、リラックスした様子で彼女を包み込む。
「ダイニングで食べる?」と遥がそっと聞く。
彼は答えず、代わりに近づいて、「まず味見して」と言う。
陸は彼女の手首を取り、おたまを持ったままの手をそのまま自分の口元に運ぶ。
喉仏が上下し、飲み込む動作がどこか強引さを感じさせた。
「うまい」と、彼は緊張気味に感想を待つ彼女の顔を見て、ふいに方言で呟いた。
遥は、彼が故郷の言葉を口にするのを初めて聞いた。その独特な響きが、もともと低い声に混じり、心の奥をくすぐるような妙なときめきを覚えた。
結局、食事はダイニングに移すこともなく終わった。
陸は彼女の手を使って、いくつかの料理を味わっていった。彼は真剣に食べており、口に合っているようだった。
空になった皿を眺めながら、遥の心には、密かに満たされるような喜びが広がっていた。どんな関係であれ、自分の作ったものが大切にされるのは嬉しいものだ。
二人の身体は、すでに互いのリズムに慣れていた。
激しさの中で指を絡め、息が白くガラス窓を曇らせ、力尽きて抱き合うと、不思議な満ち足りた気持ちが押し寄せてきた。
陸は遥を腕に抱きながら、窓の外の冷たい月明かりを見つめていた。
遥の肌は月に照らされて白く輝き、彼は目を離せなくなる。
うとうとし始めたところで、彼女は反射的に「パチン」と彼の手を払いのけた。
静まり返った部屋にその音が響く。
遥は一瞬で目が覚め、思わず「ごめんなさい」と口をついて出てしまう。
この関係が決して安定したものではないことを、彼女はいつも心の奥で自覚していた。満ち足りた後は、互いの部屋に戻るのが普通だろうが、陸は離れようとせず、彼女も動く気になれなかった。
陸は呆れたように彼女を再び腕の中に引き寄せた。
「僕のほうこそ悪かった。君が謝ることじゃないだろう?」
遥は黙ったままだ。裕久の残した影はなおも心に残り、根底からの安心感は一度も得られたことがない。
この世界で、自分には頼れる人などいない――そう思っていた。
「俺の女が怒ることもできないなんて、それは俺の責任だ」と、低い声で陸は言う。
その言葉に、遥の胸はじんわりと温かくなる。しかし同時に、これを彼が今まで何人に言ってきたのかと、ふと疑ってしまう。でも今夜の空気は、これまでとは違い、彼の優しさに包まれるような心地よさがあった。自然と心の壁が緩んでいく。
「実は、あなたに嘘をついてた」と、遥は小さな声で打ち明けた。
「ん?」と、陸は、行為の後の少しかすれた声で返す。
「裕久と一緒にいたのは、『ちょうど恋人が欲しかったから彼が現れただけ』じゃない」
彼女は少し言葉を区切る。
「誕生日の日、深夜零時にLINEをくれたのが、彼だけだったの」
遥はもう何年も、自分の誕生日を祝うことはなかった。
言い終えても返事がなく、彼女は思わず自分の顔を隠した。
「馬鹿…」
その瞬間、突然強く抱き寄せられる。
闇の中、陸のまなざしは熱く、様々な感情が渦巻いているようだった。そしてそれは、彼女の額への一つのキスとなって降り注ぐ。そこには、今まで知らなかった、ほとんど哀れみに近いほどの優しさがあった。
そう、哀れみだった。
遥はこの夜、初めて陸の堅い殻の奥にある別の温もりを感じた。冷たく突き放したり、鋭く彼女の「問題」を指摘したり、あるいはベッドでわざと赤面させるようなことを言う彼ではない。
そのぬくもりは、遥にとって初めての「本当の距離感」だった。
甘い時間はいつもあっという間に過ぎていく。
朝、遥は洗顔を終え、陸とテーブル越しに向かい合って座る。彼はいつもの冷静な表情に戻り、黒いシャツのボタンを首元まできちんと留めている。
「今日は家に帰るね」と、遥は普段通りの口調で言う。
陸は目を上げて彼女を一瞥し、「次はいつ来る?」と尋ねる。
「んー」と遥はミルクのカップを持ちながら、「暇な時に連絡して、私も忙しくなければ」と答えた。
こんなやり取りは、彼が会社を継いでからは久しくなかった。
陸は表情を変えずうなずき、彼女の前の朝食を指さす。遥はサラダを少しだけ口にした。
陸は眉をひそめて、「そんなに少ししか食べないで、小鳥みたいだな」と言った。