早川遥が初めて深沢陸のスポーツウェア姿を見たのはこの時だった。彼は眼鏡を外し、額には汗止めのヘッドバンド。まるで大学生のように若々しい。
そのギャップに、遥は思わず立ち尽くしてしまった。
高橋時生はすでにこちらに気づき、吉田玲奈に手を振る。二人はすぐに寄り添い合う。
「玲奈、着替えに行く?」高橋は額に軽くキスをする。
「うん、ちょっと待ってて!」玲奈は遥に手を振り、足早に更衣室へ向かった。
遥と陸の目が合い、遥は気まずそうに視線を逸らす。
だが、陸はじっと彼女を見つめている。その目には、どこか不機嫌そうな色が浮かんでいた。
「まあまあ、そんなに見つめてたら、穴が開いちゃうよ」
高橋が茶化して場を和ませ、遥に声をかける。
「遥も着替える?」
タイミングよく、スタッフが新品のテニスウェアを差し出した。
玲奈は手慣れた様子で高橋の専用ラウンジへ。
遥はその場で少し戸惑いながらウェアを受け取る。
「こちらへどうぞ」スタッフが丁寧に別のラウンジの扉を開けてくれた。
部屋は驚くほど広く、まるでスイートルームのようだ。
すりガラスで仕切られたバスルーム、大きなベッド、バルコニーからは東京のランドマークが見える。
遥がクローゼットを開けると、男性用のスーツとシャツが掛かっていた。
そっと顔を近づけると、見覚えのある清々しい香り──陸のものだ。
ほっとして、ウェアを持ってバスルームへ入る。
だが、肝心のテニスウェアのデザインが……何とも言い難い。
ピンクのショートスカートにタイトなトップス、まるでチアガールのような可愛らしさ。
中学生以来、ピンクなんて着ていない。それに、サイズも合っていない。
少し動くとトップスがずり上がり、胸元がきつくて苦しい。
これでテニスなんて無理だし、まるで妙な誘惑をしているみたいじゃないか。
後ろ姿を鏡で見ようとしたその時、不意に息を呑む──
いつの間にか陸が部屋に入っていて、ベッドに座り、無言でこちらを見ていた。
遥は胸を押さえ、不満そうに言う。「ちょっと、驚かせないでよ」
彼女が必死に距離を取ろうとする様子が、妙に生き生きとして見える。
陸は口元をわずかに上げた。
「サイズが合うか見てただけ。ちゃんとドアも開いてたし」
彼が開いたままのドアを指す。
確かに音はしなかったし、すりガラス越しに問い詰めるのも気が引ける。
「心の中で俺のこと悪く言ってるだろ?」陸がズバリと言い当てる。
「そんなことないよ」遥は反論するが、
「どうかな」陸は容赦なく言い返す。
遥は思わず目を見開く。
陸はベッドに手をつき、どこか余裕のある仕草で遥を眺める。
「でも……その格好、なかなか悪くない」
ピンクは肌が白くないと似合わないが、遥の肌は透き通るように美しい。
他の人に見せるのは気が進まない。
遥は内心、こんなことを平然と言うなんて、二人の関係を考えれば別にどうでもいい、と思った。
問題は、高橋たちがまだ外で待っていること。
もし陸がその気になったら、困るのは自分だ。
「サイズ合わないし、ピンクは好きじゃない」遥は咳払いして言う。
彼女のクローゼットはいつもモノトーンで、アクセサリーも上品なパールが多い。
顔立ちは派手ではなくとも、見飽きることのない端正さだ。
陸は、つい見入ってしまう自分に気づく。
彼が少し身を乗り出し、「こっちへおいで」と声をかける。
遥がベッドのそばに行くと、陸は彼女を抱き寄せ、顎を肩に乗せた。
「今日は仕事じゃなかったの?」
「顧客に会いに来たの。美容サロンは奥様たちに話を聞いてもらうのに最適な場所だから」
「それで高橋と鉢合わせか」
陸は、同じ香水を身にまとった遥の香りを嗅ぎ、なぜか心が和らぐ。
遥は彼のぬくもりと息遣いを感じ、逃げようとしたが、陸にベッドへ押し倒される。
「スタッフに、サイズの合うのを持って来させる」
遥がうなずいた瞬間、陸はわざとらしく「俺が脱がせてやろうか?」と囁く。
遥が気づいた時には、もう遅かった。陸の手が服の中に伸びてくる。
「何してるんだよ!」高橋の声がドアの外から響いた。
二人の動きが止まる。
陸は喉を鳴らし、ぼそっと悪態をついて、遥の服を直してやる。「待ってろ」
そう言ってドアに向かう。
遥は思わず陸の服の裾をつかんだ。
陸が見下ろすと、遥の白くて細い手が彼の服を握っている。
「そのまま出て行ったら……またからかわれるよ」
陸は自信たっぷりに「逆に自信なくすんじゃないか」と言ってのけた。
遥は唖然とする。まさかこんなことを言うなんて。
高橋がまたドアを叩く。「陸、終わった?」
「うるさい、あっち行け」陸がぶっきらぼうに返す。
「へいへい、わかりましたよ!」
高橋は笑いながら去っていった。茶々を入れられ、二人とも気持ちが切り替わる。
スタッフがすぐに、ぴったりサイズの普通のテニスウェアを持ってきた。
遥はそれを持って浴室へ向かい、パチンと部屋の電気を消した。
暗闇の中、陸が「今さら隠しても遅いんじゃない?」と呟く。
「着替えるだけだし、見てもしょうがないでしょ」遥はぶつぶつ言いながら、素早く着替え、髪をまとめて出てきた。
「簪、持ってこなかったのか?」と陸がふいに尋ねる。
遥は気軽に答える。「高そうだったし、使う場面もないし。約束したでしょ」
──関係が終わったらお互い干渉しない、という決まりのことだ。
陸はそれ以上何も言わず、遥が鏡の前で髪をきゅっとまとめるのを見つめていた。
ふいに、彼の手が彼女の背中に滑る。
遥は思わず身をよじる。
陸は楽しそうに「くすぐったい?」と聞く。
「ちょっとだけ」遥は負けず嫌いに背筋を伸ばす。
「もういいよ、行こう」
陸がドアを開ける。
「顧客の件、うまくいった?」
「まあ……残ってた問題は片付いたかな」