テニスコートに到着すると、向こうから数人のグループが歩いてきた。先頭にいるのは西坂弘也だった。
深沢陸が早川遥と一緒にいるのを見て、西坂は軽く手を挙げて挨拶した。まだスーツ姿のままで、仕事帰りらしい。
他の面々も深沢を見つけると、目を輝かせながら次々と声をかけてきた。
早川遥は静かに深沢の隣に立ち、おとなしく付き添い役を演じるしかなかった。
「深沢社長がここに来るなんて珍しいですね」
「今日はちょうど時間があってね」深沢は穏やかに微笑んだ。機嫌は悪くなさそうだ。
皆の視線が早川に流れるが、何も言わずに空気を読んで早々にその場を離れていく。
西坂だけは去り際に「ありがとう」と言った。
深沢は無言だったが、早川が先に口を開いた。
「西坂さん、先日のこと、助けていただいてありがとうございました」
結局、西坂の従妹が心臓発作を起こした騒ぎになった以上、感謝の一言では足りないだろう。
西坂は眉を上げて深沢を見た。「彼女には話してないのか?」
深沢は黙っている。
西坂はあっさりと言った。
「礼はいらないよ。感謝するなら、君の隣にいる彼女にすべきだ。僕はビジネスマンだから」
そして深沢に軽く頷く。「また今度食事でも」
「うん」深沢は早川の腰に腕を回し、そのまま歩き出した。
早川が見上げても、見えるのは深沢のシャープな顎のラインだけ。二人の身長差がはっきりと分かる。
西坂には強い威圧感があるが、深沢は冷静な中にも独特な優しさが感じられる――本気になれば、春の陽射しのような温かさを見せることもできる。ただ、その分、何を考えているのか掴みにくい。
眼鏡越しに、早川は彼の本心を測りかねていた。
「何か聞きたいことがあれば、遠慮なく言って」深沢が低く言う。
「何でもいいの?」思わず早川は聞き返した。
「もちろん」彼は口元を少し上げる。
「君には、その権利がある」
早川は率直に尋ねた。「西坂家の件、どうやって納得させたの?」
「ただのビジネスの取引さ。利益を一つ譲っただけ。1億円もあれば西坂家だって黙るさ!」
高橋時生が後ろからふざけた声で言い、吉田玲奈が腕を絡めて笑っていた。
早川は思わず息を呑み、驚いて深沢を見た。その「借り」は、どうやって返せばいいのか。
深沢は彼女の頭を軽く撫で、高橋を睨む。
「余計なことを」
高橋は肩に手をかけようとしたが、深沢に避けられてしまう。
「離れてろ」
吉田玲奈はこの時、早川への興味を隠さず、「やっぱり深沢さんの恋人だったんだ!さっきから気になってたの」と明るく言った。
深沢は高橋とは正反対で、女性を連れていても仕事上の付き合いがほとんどだ。
高橋はというと、恋愛も遊びも全開タイプ。
玲奈も自分が高橋の「最後の女」ではないことを分かっているが、別れる時の手切れ金はいつも十分なので、今を楽しんでいる。
彼女は早川をじっと観察する。涼やかで自然な美しさ。なるほど、深沢の好みはこういう女性なのかと納得する。
早川はどこか上の空で、玲奈の軽口にもあまり反応しない。
1億円――深沢にとっては大した額ではないが、自分にとっては天文学的な数字だ。みほが起こしたトラブルの後始末を、最終的に自分が背負う形になったことに、心が重くなる。
つい最近「対等でいたい」と話したばかりなのに、これでは到底釣り合わない。
玲奈は少し一緒にいただけで、早川が人見知りなのを察して、無理に距離を詰めようとはしなかった。
「さ、そろそろアップしよう!」高橋が声をかける。
室内で日差しは気にならないが、玲奈はどうも運動が苦手なようで、高橋の傍にまとわりつく。
「じゃあ、手加減してね」
高橋は彼女の肩をほぐしながら笑う。「今度一緒にジムでも行く?」
「うん、行く!」二人は周りも気にせずイチャイチャしていた。
深沢も手首を回して準備を始める。
早川は普段から運動していて、週末はよく山登りもするので体力もあり、動きもきれいだが、明らかに上の空だった。
深沢の手がふいに彼女の腰にそっと触れる。
びくっとして振り向くと、
「何を考えてた?ちゃんと集中して。足を捻ったら大変だよ」と、低い声が耳元に響いた。彼のクールなウッディな香りに包まれる。
早川は見上げる。
深沢は喉を鳴らし、さらに低い声で言う。
「そんな目で見ないで」
早川:「えっ?」
「キスしたくなるから」
彼女は耳まで赤くなり、慌てて目をそらした。
その時、高橋のスマホが鳴った。彼はおどけた口調で電話に出る。
「勇太、もう1時間も待ってるぞ、のろま!」
電話の向こうから西谷勇太の声がした。「ちょっと人を迎えに行っててさ!」
皆がそちらを見ると、西谷の後ろには全身高級ブランドで固めた女性がいた。
高橋の表情が一瞬曇り、西谷に合図を送る。
西谷もその場の空気に気づき、深沢と早川が一緒にいる予想外の状況に固まってしまう。
伊藤裕久の一件を思い出し、この場の意味をすぐに察した。
ふと隣の藤木真実を見やる。
「深沢くん!」
真実の視線は深沢に一直線で、高橋に向かう時は少し棘のある口調になる。
「どうして?私に会いたくなかった?」
高橋はいつもの調子で答える。
「いやいや、お嬢様!いつ帰国したんだ?この前まで海外だったろ?」
真実の視線は深沢に向かっていたが、最終的に早川に留まる。
「まあ、ちょっと息抜きに出てただけ。つまらなくなったから帰ってきたの。深沢くん、こっちは?」
早川は目を合わせ、手を差し出した。
「早川遥です」
真実は適当に握手し、値踏みするように早川を見たが、何も掴めない様子だった。
高橋は勇太の腕を引っ張り、少し離れて話す。
「なんで彼女連れてくる前に言わないんだよ!」
勇太も困った顔で答える。
「昨日から“絶対連れてって”ってしつこくてさ、断れなかったんだよ。深沢と伊藤さんの元カノが…まさか本気で?伊藤さんに罠でも仕掛けたのか?」
高橋は呆れたように目を剥く。「そんなこと本人に聞けるか?アイツがそんな人間か?」
伊藤裕久が自業自得でなければ、深沢がわざわざ仕組むはずもない。
「まあ、そうだよな…で、どうする?真実さん来ちゃったけど」
「自分で面倒見ろよ!あの性格、俺は無理」
佐藤家のじいさんの顔立てて付き合ってるが、正直、真実の気性には誰も手を焼いている。
勇太は今さらながら、心底後悔していた。