早川遥はさっとシャワーを浴び、服を着替えると、脱いだスポーツウェアをきちんと畳み、バッグを手に取って部屋を出ようとした。
深沢陸は最初から何も言わなかったし、遥にはここに留まる理由もない。藤木真実に執拗に目の敵にされるのもまっぴらだ。
深沢陸が自分の男でもないのに、なんで彼の女関係の後始末までしなきゃいけないの?せいぜい一晩の相手、その程度だ。
そんなことを心の中でぼやきながら休憩室を出ると、吉田玲奈がちょうど待っていた。
「やっと出てきたね、行こう。」
玲奈は自然に遥の肩に手を回す。休憩室の外には屋上テラスがあり、コンクリートの都会の中でも、金持ちたちはこういう「自分たちだけの空間」を持つものだ。
階段を下りながら、遥は小声で言った。
「このあと、私は直接帰るから。」
玲奈は少し驚く。「一緒に夕飯、行かないの?」
「行かない。夜は用事があるから。」遥は本当にオンライン授業があったので、冗談ではなかった。
でも玲奈には決定権がない――高橋時生に頼まれて、遥を連れて行くように言われていた。
「せめて深沢社長に一言挨拶しないと、ね?行こうよ。」
遥は内心で思う。深沢陸は今ごろ、藤木真実に絡まれているだろうし、こっちに構っている暇なんてない。余計なことはしたくないのだ。
断ろうとしたその時、不意に背中を強く押された。バランスを崩し、ヒールがギシッと嫌な音を立てる。とっさに手すりをしっかりつかんだので、階段から転げ落ちずに済んだ。もし転んでいたら、ただでは済まなかっただろう。
振り返ると、押したのは藤木真実だった。
玲奈は顔を真っ青にして、相手の立場も構わず叫んだ。「何してるの、危ないでしょ!」
玲奈は高橋時生の身内なので、もともと藤木真実を苦手に思っていたし、遠慮もなかった。
藤木真実は口元を歪めて、甘い顔に不快な得意げな表情を浮かべた。「さっきわざと私を狙ったでしょ?お返ししただけよ。」
それでもまだ足りないと思ったのか、玲奈を睨みつけて馬鹿にしたように言った。
「自分が何様だと思ってるの?勇太も時生も、今まで何人の女を連れてきたか、ここに生えてる木より多いんじゃない?でもみんな所詮、遊び相手でしかないでしょ。私に文句言う資格なんてないよ。私とあなたたちじゃ、土俵が違うの、わかる?」
生まれながらの特権意識を隠そうともせず、遥と玲奈のことなど、ただの使い捨ての「汚れたおもちゃ」としか見ていない。
玲奈は悔しさで目に涙を浮かべた。
「どうしてそんなこと言うの?自分だって深沢社長にしつこくまとわりついてるくせに。社長はあなたのこと、見てくれたことある?私は少なくとも時生さんが招待したけど、あなたは?確かに土俵が違う――向こうはあなたに興味すらないんだから。」
藤木真実は生まれの違いで相手を圧倒できると思っていたが、玲奈に急所を突かれ、顔を真っ赤にして手を振り上げ、玲奈の頬を平手打ちした。
テラスに響くその音は、やけに大きく感じられた。
さらにもう一発叩こうとしたが、遥が玲奈をかばいながら前に立ち、冷ややかに藤木真実を睨んだ。
「藤木さん、謝って。」
藤木真実はとんでもない冗談を聞いたかのように鼻で笑った。
「なに?あんたたちに謝れって?自分の立場、分かってる?」
言い終わらないうちに、遥は彼女の襟首をつかみ、欄干に押し付けた。藤木真実の背中は半分宙に浮いて、腰だけでなんとか支えている。足元は何階分もの高さだ。
「何してるの、頭おかしいの?」藤木真実は声を震わせた。
玲奈も唖然とする。髪を引っ張るくらいは想像できても、ここまでやるとは思わなかった。
遥は無表情で頭上の監視カメラをちらりと見やった。「法律のある国で、行動する前に少しは頭を使ったら?藤木家がどれだけ権力を持ってても、全部を隠せるわけじゃない。もし今の映像が流れたら、『藤木家の娘が暴力事件』ってニュースが出るだけで、藤木グループの株は暴落する。結局、自分で謝罪して、ネットで叩かれることになるわよ。自分の言ったこと、世界中に向けて言える?」
「今、謝れって言ってるのは、あなたのためを思ってのこと。」
藤木真実は怒りと恐怖で震えた。「脅す気?私が怖がるとでも?」
「怖くないでしょ?だからさっきみたいなことができる。でも、私は失うものなんてない。家族の後ろ盾もないし、傷ついてもあなたほど困らない。権力を振りかざすなら、その責任も負いなさい。」
その時、玲奈が高橋時生と西谷勇太たちがこちらに向かってくるのに気づき、思わず涙があふれた。彼らは着替えを済ませて戻ってきたところで、状況を見てすぐに何があったか察した。特に玲奈の頬の赤い跡を見て、時生は顔をしかめ、玲奈の顔を両手で包んだ。
「藤木さんがやったのか?」
玲奈はうなずき、簡単に事情を説明した。
西谷勇太が場を収めようと間に入る。
「誤解だよ、遥さん、とりあえず彼女を離して。これ以上騒ぎになるのはまずい。」
遥は勇太が自分の味方をしないことなど最初から分かっていたので、無言で手を離した。
藤木真実は逆上してまた向かってこようとしたが、遥はバッグを置き、臨戦態勢を取る。
時生が藤木真実を引き寄せて怒鳴った。
「いい加減にしろよ!調子に乗るな。今後、俺の集まりに彼女を連れてきたら、友達やめるからな。」
西谷勇太はバツが悪そうに鼻をこすった。
遥はそれ以上関わる気もなく、バッグを持って階段を下り始めた。だが、さっき捻った足のせいで歩みは遅い。
西坂弘也が時生の肩を軽く叩いた。「俺は先に帰る。」
もともと用事があった西坂は、遥の隣に来て立ち止まる。「手、貸そうか?」
遥は彼が支えてくれるのかと思い、首を振った。「大丈夫。」
すると西坂は何も言わず、彼女をそのまま抱き上げた。遥は驚く。「ちょっと、何してるの?」
西坂は無言のまま彼女を抱えてエレベーターへ向かう。
それを見た西谷勇太は、ふと何かを思い出して頭を叩いた――深沢陸が先に駐車場へ行っていて、遥を呼んでくるよう頼まれていたのだ。
もし駐車場で鉢合わせたら……修羅場になるかもしれない!