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第30話 あなたもそのために来たんでしょう


その一言が終わると、車内には長い沈黙が流れた。


しかし、言いたいことを言えたことで、早川遥は大きく息をつくことができた。


これでいい。もともと自分と深沢陸は、住む世界が違う人間なのだ――見てごらん、彼のそばにいるだけでどれだけ面倒なことに巻き込まれたか。自分はただ、普通に働いて、昇進して、ローンを返して、恋愛は成り行き任せ、規則正しい生活を送り、たまに旅行でリフレッシュする…それで十分だったはず。


考えれば考えるほど、最初からあんな関係を持ちかけるべきではなかったと悔やまれる。


明らかに肩の荷が下りた遥に対し、陸の表情はとても穏やかとは言えなかった――もっとも、遥が彼の顔を一瞥でもすればの話だが。


だが残念ながら、今の彼女には、早く家に帰ることしか頭になかった。


運転手ができる限りゆっくり車を走らせたものの、遥の住むマンションにはあっという間に到着した。


車がマンションの前に停まるやいなや、遥はすぐに立ち上がり、陸には一切目もくれず、西尾優一と運転手にだけ軽く礼を言い、ドアを閉めて足を引きずりながらエントランスへと向かった。


西尾はごくりと唾を飲み込み、後部座席を振り返る。「深沢社長…」


さっき、社長が女性から冷たくあしらわれるところを目撃したが、まさか自分まで巻き添えでクビになったりしないだろうな…?


だが陸は何も返事をしない。後部座席には、まるで誰もいないかのような静けさが広がった。


西尾は居心地の悪さに身を縮め、上司の一言を待つしかなかった。


遥はゆっくりと自宅まで歩き、ドアを開けて中へ入ると、思わず立ち止まった――先日、伊藤裕久に荒らされた部屋が、信じられないほど綺麗に片付けられている。ほんのりと消毒液の香りまで漂ってきた。本来なら警察が証拠を保全したままにしておくはずなのに、きっと陸が手配したのだろう。


少しだけ、胸に罪悪感がよぎった。


ドアを閉めるとき、遥は頭を掻いた。もういい、口に出した以上、ここで終わりにしよう。


ハイヒールを脱ぎ、素足が床に触れた瞬間、思わずため息が出そうになるほど心地よかった。


だが、くつろぐのはまだ早い。ネットで学んだ通り、室内をくまなくチェックする――ティッシュボックスや部屋の隅、バスルーム、寝室と、カメラが仕掛けられていないか念入りに確認する。


伊藤裕久のような変態が何かを残していなかったことを確かめてから、初めて照明をつけた。


ベランダで数日前に干した洗濯物を取り込むときも、下を覗く余裕はなかった――もし見ていれば、あの黒い車がまだマンション前に停まっていることに気付いただろう。


部屋に戻り、クローゼットを開けるのに少し身構えたが、自分に言い聞かせて思い切って扉を左右に開いた。中に異常がないのを確認し、ようやく落ち着いて着替えを手に取ってバスルームへ向かった。


これからはクローゼットを開けるたびにトラウマになりそうだ――すべては伊藤裕久のせいだ。


遥はやさしくメイクを落とし、バスタブにアロマオイルのバスボムを入れ、タブレットで見かけのテレビ番組を再生し、ワインをグラスに注ぎ、アロマキャンドルに火をつけ、フルーツサラダも用意して、ゆっくりくつろぐ準備を整えた。


鼻歌を歌いながらゆっくりとお風呂に浸かり、ボディクリームを塗って、ドライキャップで髪を包みながらシートマスクもした。


バスルームのドアを開けて、機嫌よく鼻歌を続けながらリビングに出ると、ソファで書類をめくる男の姿が目に入り、驚きのあまり貼ったばかりのマスクにひびが入った。「ちょっと!どうやって入ってきたの?」


もし陸が今ここで首でも絞めてきたら、もう男の人なんて一生信じられない…とさえ思った。


だが、陸は落ち着いた様子で言った。


「お前の家の鍵、前に俺が壊したからな。西尾が新しいのに替えて、そのついでに俺にも一本渡してくれた。」


遥はようやくドアの鍵が本当に替わっていることに気づいた。自分では全く気付かなかった。


「驚いたのか?」陸は眉を上げる。「鍵が替わったことにも気づかないなんて、そりゃ他人が家に入っても分からないはずだ。おまけに家の中で歌まで歌って…。そんな警戒心で、よく一人暮らしなんてできるな?」


なぜか責めるような口ぶりだ。


遥は我に返り、眉をひそめる。


「深沢社長、西尾さんから鍵を預かったとしても、無断で入るのはどうかと思いますけど?」


陸は直接答えず、遥がさらに言葉を重ねる。「さっきも言いましたけど、私たちはもう終わったんです。」


そのとき、ようやく陸が顔を上げ、脇に置いていた書類を差し出す。「これ、見てみろ。」


遥は訝しげに受け取り、中身を見た瞬間、思わず息を呑んだ――西坂弘也との取引に関する契約書だった。この関係を今断ち切れば、あの長々とした金額を自分で返さないといけないということだ。


心の中で毒づいた。前はなんで陸のことを紳士だと思ってたんだろう?全然、タチの悪い奴じゃないか!


あんな無害そうな顔して、脱いだらどうなるかなんて…


陸は、遥が怒るかと思ったが、からかうように眉を上げて聞いた。「さて、どうやって言い逃れするつもりだ?」


遥は意外にも、書類を投げ捨て、そのまま彼の隣にごろんと寝転がった。まるで諦めた魚のように。


「あなたもそのために来たんでしょう?ちょうどお風呂も入ったし、やるなら早くして。」


そう言うと、遥は足で陸のスーツのズボンを蹴る。ズボンの裾には、彼女の体から漂う柚子のアロマオイルの香りとともに、水の跡が広がっていった。

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