「深沢グループに来てみないか?」と、陸がふいに口を開いた。
早川遥の学歴や経験を考えれば、深沢グループに入るのは難しくない。ただし、きっと高いポジションは望めないだろう。それに彼女は三原ホテルで長年頑張ってきて、今や部門マネージャーの座を狙える位置にいる。たとえ子会社のポジションだとしても、それは彼女がずっと目標にしてきたことだった。もし深沢グループに転職して、そのうち陸と何かあったら、また一から仕事を探さなければならないかもしれない。
そんな彼女の迷いを見透かすように、陸は静かに言った。
「自分でもわかってるだろう。三原ホテルでどれだけ頑張っても、行き止まりは見えてる。ああいう老舗のグループは上層部が保守的で、新しいことを受け入れないし、女性にも厳しい。でも深沢グループなら、俺がいる。お前が手に入れられるものは、三原ホテル以上だ。」
今夜、彼が遥の将来を語るのはこれで二度目だった。どちらも「彼の目の届く範囲」であることが前提だ。
遥はそれ以上深く話したくなかった。彼が少しずつ譲歩しているのはわかる。少なくとも、いきなりお金で解決しようとしていない。これだけでも進歩だ。
「深沢グループって、裏口入社とか受け付けてないんじゃなかった?」と、軽くからかうように言った。
「他人にはな。でも身内は別だ。ゆっくり考えればいい。」陸は強引に押し付けることはしなかった。
遥もすぐには答えなかった。彼女は決断を先延ばしにしがちだが、本当に追い込まれたとき、陸が手を差し伸べてくれるなら、現実に逆らう必要はない。
会社に着いた。陸は車をビルの前に止める。遥はドアを開けて、「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」と言った。
陸はうなずき、彼女がビルに入るのを見届けてから、スマートフォンを取り出した——高橋時生からメッセージが何十件も届いていた。藤木真実が二人の外出を知って取り乱している様子や、「付き合ってるのか」としつこく聞いてきていた。
陸はただ位置情報を送り、「残業中」とだけ返した。
高橋時生:【???新しいプラトニックラブですか?こんな夜にデートじゃなくて残業?深沢社長、さすがですね。もう僕は時代遅れか】
陸はトーク画面を閉じる。時生と話していても、何も得られない。
ほどなくして、遥がビルから出てきた。守衛に挨拶してから車に戻ってくる。
「お待たせ。」
「鈴木さんの住所は?」
遥は鈴木蓉子の自宅の位置情報を送る。車で20分ほどかかる。
「少し寝たら?」と陸が言う。
「大丈夫、数分じゃ眠れないし。」
蓉子の家は静かな住宅街にあった。陸が車を止めると、遥は小声で「すぐ戻るから」と言った。
「うん。」
陸も車を降り、遥が家に入るのを見送ってから車のそばで煙草に火をつけた。
蓉子は明らかに急いでいた。書類を受け取るとすぐに内容を確認し、仕事の電話を終えてから「夜遅くに呼び出してごめんね。お茶も出せなくて」と謝った。
「仕事ですから。もう用事がなければ、失礼します、鈴木さん。」遥は立ち上がる。
「タクシー呼ぼうか?」と蓉子がスマホを手に取る。
「大丈夫です、友達が車で送ってくれてるので。」
蓉子は意味ありげに微笑む。「彼氏?どんな人?」
遥は少し困りながら、「本当に彼氏じゃないんです」と答えた。
「じゃあ、想い人ね。恋愛は禁止してないから安心して。今夜は私が邪魔しちゃったみたいね」と蓉子は立ち上がる。
遥は陸を待たせているので、足早に外に向かった。
「足、どうしたの?」と蓉子が声をかける。
「昼間、ちょっとひねっちゃって。」
「休み取る?」
「大丈夫です、明日には治ると思います。ここまでで大丈夫です。おやすみなさい。」遥は手を振り、駐車場の方へ向かった。
少し離れたところで、蓉子は車のそばに立つ男性の姿をぼんやりと見送った。背が高くてスタイルも良く、立ち姿だけでも格好良さがわかる。伊藤よりずっと上だ。
特に気にせず玄関を閉めようとしたが、遥が男性のそばに歩み寄った瞬間、彼に顔を包まれてキスをされた。その仕草は情熱的で、指先には赤く光る煙草の火が見えた。
まるで映画のワンシーンのようだった。蓉子は遥が男性を軽く押し返したのを見届けて、赤くなった顔でドアを閉めた。
「社員は帰った?」と夫が階段を下りてきた。
蓉子は笑いながら首を振った。
「彼氏じゃないって言ってたのに、玄関でキスしてるんだから、まるで火がついたみたい。」
「ベランダから見たけど、あれ、深沢社長に似てたぞ。」
「夜中に見間違えたんじゃない?深沢社長が来るわけないでしょ。全然違う世界の人よ。」
遥は美人で雰囲気もいいから、芸能人になれるくらいだ。でも深沢陸と付き合えるなんて話、到底信じられない。深沢グループの立場を考えたら、彼女のことが本当に好きなら、わざわざ三原ホテルに置いておく必要はない。すぐにグループ内でポジションを用意できるはずだ。
蓉子ほど遥の入社当初の頑張りを知っている人はいない。毎日一番に出社し、最後まで残って、食事中も資料を読んでいた。任された仕事はいつも完璧にこなす。コネで入った人たちとは違い、仕事を押し付けることもない。もし伊藤との恋愛で足踏みしていなければ、総務部のマネージャーはとっくに彼女のものだった。
車の中で、遥の鼓動はまだ収まっていなかった。さっき近づいたとき、陸は車の前にもたれかかり、長い脚を軽く曲げて、腕時計が街灯の下で冷たく光っていた。指先の煙草が赤く燃えていた。彼の視線はまるで主人を待つ狼のようで、思わず心が揺れた。
見た目が良いと、人は本当に理性を失うのだと実感する。
彼のそばに立った瞬間、腰を引き寄せられ、顔を両手で包まれてキスされた。最初は軽く、やがて親指が唇をなぞると、彼の目は深く沈み込むようで、吸い込まれそうだった。一瞬、本当に愛されているのかと思ってしまいそうになる。
夜風が木々を揺らし、遠くから花の香りが漂い、別荘の中からは子どもが宿題を嫌がる声が聞こえてくる。
まるで現実の世界から切り離された恋人のように、二人は強く抱き合っていた。
そんな考えが浮かんだ瞬間、遥は自分でその気持ちを打ち消した——ただの関係でさえ十分に無謀なのに、相手が深沢陸だなんて、正気の沙汰じゃない。
「帰ろうか。」と、彼女はうつむき、かすれた声で言った。
陸は彼女の手を取る。指先には煙草のほのかな冷たさが残っていた。「うん。」