藤木兄妹が去ったあと、ようやく場の雰囲気が和らいだ。藤木孝博に伴われてきた早川遥は、そろそろ席を立とうかと考えていたが、高橋時生がにこやかに声をかけた。
「みんな、どうしたの?さあ、食べようよ。」
この場にいるのは皆、空気を読める人たちだった。誰も深沢陸を敵に回したくはない。
早川遥の素性がどうであれ、名刺を差し出し、「また三原ホテルでゆっくり話しましょう」と言う者が続いた。直接話しかけられない人たちも、小林雪にさりげなくアプローチしていた。
普段はなかなか会えないような人たちが、自ら交流を求めてくる。
小林雪は驚きと嬉しさでいっぱいになり、次々と名刺を配り、一件でも多く仕事を取りたいと意気込んでいた。
やがて藤木真実の一件も、皆の暗黙の了解でなかったことにされた。
一方、駐車場では、佐藤兄妹が激しく言い争っていた。藤木真実はまだ納得できず、今にも会場に戻ろうとしていた。
「真実、もういい加減にしてくれ!お前が妹じゃなかったら、俺はとっくに見捨ててる!」藤木孝博は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「私、何か間違ったこと言った?あの三人の女、みんな深沢くんに気があるの、わからないの?」真実は食い下がる。
「それがどうしたんだよ?深沢に惚れてる女なんて山ほどいる。だけど、お前みたいにしつこくする奴なんていないだろ?あいつが一度でもお前に本気で相手にしたか?何度も言ってるだろ。女は顔じゃないけど、バカはダメだって!美容に時間かけるくらいなら、鏡を見て自分の言動を反省しろ!」
「私は藤木家の娘よ。深沢くんとうちはビジネスの関係もあるのに、あんな女のために佐藤家を敵に回す気?」
「深沢グループと取引を失ったら、どれだけ損害が出るかわかってるのか?東京で深沢グループに代わる会社はないが、藤木製薬なんていつでも代わりがいるんだ。お前が今戻ったら、父さんに殺されるぞ。恥をかきたいなら勝手にしろ、俺はもう知らん!」
そう言い放つと、孝博は車のドアを開けてそのまま走り去った。
真実はその場に立ち尽くし、涙をぬぐいながら悔しさを噛みしめていた。
「絶対に早川遥を後悔させてやる。深沢くんだって、誰が本気で想っているかわかるはず…」
彼女は携帯を取り出し、「すみません、調べてほしい人がいるの。三原ホテルの早川遥って人。」
——
個室の中は、佐藤兄妹がいなくなったことで、ずいぶん居心地がよくなった。
吉田楽々と小林雪は明るく、すぐに場の雰囲気を盛り上げてゲームを始めた。早川遥がどんなに視線で合図を送っても、二人にはまったく通じなかった。
早川遥は内心ぐったりしていた。
深沢陸は相変わらず無表情で、二人の間には微妙な空気が流れていた。居心地が悪いような、それでいて周りを寄せ付けない特別な雰囲気。最初は深沢に話しかける人もいたが、しばらくすると皆、高橋や吉田のほうに集まるようになった。
「この後、もう一軒どう?」高橋は吉田のユーモアに惹かれて、声をかけた。
吉田は罰ゲームでもらった紙を頬に貼ったまま、目を細めて笑った。「今日は無理かな、ちょっと疲れちゃった。また今度ね。」
「了解!」高橋は気持ちよく引き下がった。
「返事もよこさず、こんなところでのんびり?」深沢の低い声が、早川遥の耳元に響いた。
早川遥は、フォークでつつきすぎて形が崩れた魚を置きながら、「深沢社長、何のことですか?全然意味がわかりません」ととぼけた。
「しらばっくれるんだ?」深沢はテーブルの下で、彼女の足の裏をそっと指でくすぐった。
早川遥はタイトスカートのせいで正座していたため、リラックスしているときはつい足を伸ばしてしまっていた。そんなときに触れられ、思わずにらみつけた。「深沢社長、普通の距離感でお願いします。」
深沢は考え込むように言った。「僕は…もっと近い距離が好きなんだけど。」
「距離感」という言葉を、彼はわざと意味ありげに口にした。
早川遥は、わかりたくなかったのに、ついその意図を読み取ってしまった。「普段は猫かぶってるんですね?」こんなこと、藤木真実には絶対言わないくせに。あっという間にイメージが崩れるのに。
深沢は彼女の言葉に特に反応せず、ゆっくり食事を続けていた。さっきまであまり食べていなかったのに。
「それは名誉毀損だよ、早川さん。」
その「早川さん」という呼び方が、今までになく色っぽく聞こえ、彼の視線と相まって、早川遥は一瞬、妙なことを思い出してしまった。
「顔、赤いんじゃない?」
早川遥は歯を食いしばりながら、「食べててください」とそっけなく言った。
「なんだよ、用が済んだら冷たいな。名刺もたくさんもらって、ちょっとは笑ってくれてもいいのに。」
「私は実力で名刺もらっただけですから。その話はやめてください。」名刺交換なんて当たり前だし、仕事になるかどうかはこれから。深沢陸は、ほんとに商売上手だ。
彼女が一口食べようとしたとき、深沢は彼女の下腹をつまんだ。早川遥は驚いて息をのみ、彼は悪びれもせず、「僕も実力でつまんだんだけど」とからかった。
無視することにした早川遥だったが、深沢は急に真面目な顔になって、「今度藤木さんに会っても、相手にしないほうがいい。しつこくなるから」と忠告した。
「それ、もとはと言えば深沢社長のせいじゃないですか?私は一度も自分から絡んだことありませんけど。」
深沢は目を伏せて、「返事をくれなかったのも、僕と距離を置いたのも、そっちが先だから。」
彼の言葉で、あの日テニスコートでのことがよみがえった。つまり、彼が助けなかったのは、彼女が距離を取ろうとしたから?!
なんて理屈だ。全部私のせいってこと?
「深沢社長、もう少し理屈で話してください。」早川遥は反論しようとしたが、深沢は電話に出て、そのまま立ち上がり、視線も向けずに出て行ってしまった。
「帰るのか?」高橋が声をかけた。
「ああ、楽しんで。今日は僕のおごりで。」深沢はコートを手にドアを開け、すらりとした後ろ姿がすぐに見えなくなった。
彼がいなくなると、早川遥は途端に居心地が悪くなった。吉田も疲れた様子で、しばらくして席を立つと言い出した。
高橋は普段から何軒もはしごするタイプで、無理に引き留めることもなく、みんなで一緒に外に出て、形式的な挨拶を交わした。早川遥は代行を呼んだ。
小林雪は興奮気味に、「明日、早速みんなに電話してみる!これで決まれば、今年のボーナスはバッチリだよ。ねえ早川遥、さっき深沢社長と何の話してたの?すごく盛り上がってたみたいだけど、商工会のプロジェクト、うちのホテルに来るの?」
早川遥は「……」どこがそう見えたのか。
「私も、深沢社長って噂ほど冷たくないと思うよ。今夜、藤木さんを追い払ったのは最高にスカッとした!」
小林雪はからかうように続けた。「それに、早川遥と深沢社長、けっこう仲良さそうだったよね。次もまた一緒にどうって誘ってたし。」
「社交辞令だよ。それより、深沢社長の声、なんだか聞き覚えがある気がして。」
「イケメンはみんな声がいいからね。」
小林雪と吉田が車を降りた後、早川遥は家まで送ってもらうよう運転手に頼んだ。
お酒と疲労が一気に押し寄せ、エントランスに着いたとき、突然、誰かに後ろから強く抱きしめられた。驚いて思わず叫んでしまった——