目次
ブックマーク
応援する
14
コメント
シェア
通報

第41話 私が昔を懐かしむ人間だと思う?


早川遥は、明日の仕事に差し支えないよう、キッチンで酔い覚ましのお茶を淹れに行った。バスルームから時折水音が聞こえてきて、その度に顔が熱くなる。


心の中で決めた。この先、深沢陸とはちゃんと線引きしなきゃ——外では「深沢社長」でも、ここではせいぜい一時的な同居人。

礼儀正しく、空気を読んで、余計なことはしない。彼にはそのどれも当てはまらないから、ここは自分が主導権を持たないと。


そんなことを考えているうちに、お茶が出来上がり、つい二つのカップを手にしていた。


「カチャッ」とバスルームのドアが開く音がして、深沢陸が上半身裸で現れた。彼女のピンクのタオルで髪を拭き、下半身も彼女のバスタオルを腰に巻いている。


遥は眉をひそめて言った。「なんで私のタオル使ってるの?これ、もう使えないじゃない。」


陸が片眉を上げて、「じゃあ、外す?」と、タオルをほどくフリをする。


「やめて!そのままでいいよ、あげるから!」遥は慌てて止めた。


陸はテーブルのお茶に目をやる。「随分優しいじゃない。」


遥は呆れたように目をそらし、「どっちも私の分だよ。」


「そんなに飲んだら眠れなくなるぞ?」陸は髪を拭きながら、筋肉の上を水滴がすべり落ちていく。


「寝る前に有酸素運動するから、ぐっすり眠れるの。」遥は平静を装って答える。


陸は見下ろすように遥を見つめ、「つまり、さっきの運動じゃ物足りなかったってこと?」


「……」


「よくそんな発想になるね。」遥は自分のお茶を一口飲み、寝巻きを取りに部屋へ向かった。


陸がまだリビングにいるのを確認し、遥はそのままバスルームへ。

湿った空気の中、ラックに掛かった服に彼の気配が残っている気がして、ふと前の出来事がよみがえる——この狭いバスルームでは思うように動けず、結局二人で泡まみれのままベッドに転がり込んで、シーツを台無しにしたあの夜。


遥は頬を軽く叩いて気を取り直し、シャワーを浴びる。温かいお湯が全身を包み込み、張り詰めていた一日がようやく解けていく。


その間に陸は、残りのお茶を飲み干し、カップを洗っていた。ちょうどそのとき高橋時生から電話が入り、スピーカーに切り替えると、向こうの騒がしい声が一気に響いた。


「なんで今出るんだよ?遥ちゃんと一緒か?」


陸は無表情で、「誰が“遥ちゃん”だ」と返す。


時生がわざとらしく引き延ばす。「あぁ~じゃあ早川さんってことで。そっち、シャワー中?」


シャワー音が聞こえているのは明らかだ。


「食器洗ってる。」陸はそっけなく返す。


時生は一瞬黙った後、声を上げた。「なにしてるんだよ?」


「耳鼻科でも行ったらどうだ。」陸が電話を切ろうとすると、時生が慌てて止める。「食器洗い?成長したな、お前。」


陸は淡々と返す。「お前みたいに、コップ一つ洗うのにお手伝い呼ばなくて済むからな。」


時生が茶化す。「人のこと言うなよ。お前が早川さんの家でどんな立場か気になっただけだ。」


陸はもう雑談する気もなくなり、「用件は?」と切り上げる。


時生もようやく本題に入る。「お前の秘書に聞いたら今日は接待に行ってないって言うからさ。伊藤裕久、実刑になりそうだ。結構重い罪みたいだぞ。」


陸はすでに情報を得ていた。その時、ちょうど遥がバスルームから出てくる。前半の話は聞き取れなかったが、「伊藤裕久」という名前だけははっきり耳に入った。


遥は足を止め、陸を見つめた。


「分かった、切るぞ。」陸は通話を終え、カップを拭きながら「髪、ちゃんと乾かせよ」と言った。


遥は気もそぞろに、「伊藤裕久って、お父さんの件以外にも何かやったの?」と尋ねる。


陸は隠さず、口パクで二文字を伝える。遥の顔色が一気に変わった。「警察に疑われたりしないよね?」


「しないさ。本当に疑われてたら、前に警察行った時点で調べられてる。気にしなくていい。」陸は近づき、「ほら、ドライヤー持ってこい。」


遥は伊藤裕久のことで頭がいっぱいだったが、言われるがままドライヤーを渡し、ソファに座らされて初めて気づいた——彼が自分の髪を乾かそうとしているのだ。


温かい風が頭皮をなでる。遥は何か言いかけて、結局言葉が出なかった。


「少なくとも八年は出られない。出てくる頃には、伊藤家なんてもう残ってないさ。」陸がふいに口を開く。


遥は、彼からその話を切り出されるとは思わず、目が合った。


「自分を責める必要はない。みんな自分の行動に責任を負うものだ。」と、陸。


「責めてないよ。ただ、出てきたら復讐されそうで怖いだけ。」遥は苦笑し、その心配が伝わっていないことに呆れる。


陸は意外そうな顔で、濡れた髪を梳きながら言った。「てっきり、お前はまだ……」


「私がそんなバカだと思う?こんなクズ、忘れられないわけないでしょ。もし少しでも未練があったら、あなたと一緒にいるわけないじゃん。私の額に“恋愛脳”って書いてある?」


誰と付き合おうが自分の自由だし、陸が独り身だと確信してから近づいた。伊藤裕久とは、もう何の関係もない。


そもそも、付き合う前にあんな裏の顔があるなんて知らなかったし——


知ってたら、とっくに逃げてるよ。そんなの、年越しまで取っとくわけないじゃない。


陸は遥の勢いに呆れたように鼻で笑い、「女って、言うことと本音が違うよな。そんなに嫌だったなら、なんで最初に付き合った?」


「昔のことを蒸し返さないでよ。まるで嫉妬してるみたい。」遥が冷たく言うと、空気が一気に静まり返った。


遥はちらりと陸の顔をうかがい、自分の推測を確かめるような目をした。


男は唇をわずかに歪めて、「自信家だな」と、呆れ顔。


遥は急に恥ずかしくなって、立ち上がった。「もう寝る!」


大きな足音で寝室に戻り、布団を乱暴にめくって潜り込む。わざと大きな音を立ててみせた。


しばらくして、ドアがそっと開き、高い影が部屋に入ってきて、静かにドアが閉まる。ベッドが少し沈み、同じシャンプーを使っているのに、彼の香りが妙に強く感じられる。


陸は何もせず、遥がホッとした瞬間、突然長い腕が腰を引き寄せ、片足まで絡めてきた。苦しいくらいに抱きしめられる。


「苦しいってば!」


陸は無視して、首筋に顔を埋める。「寝ろ。寝ないなら、他のことするぞ。」


遥は内心「この暴君め」と毒づきながら、今夜は無駄に争いたくないと観念し、不快な体勢のまま、少しでも楽な位置を探して目を閉じた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?