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第42話 社長の“秘書ごっこ”


早川遥は夜中、スマートフォンの振動音で目を覚ました。体はまだ深沢陸の腕の中で痺れている。なんとか手を伸ばして電話に出ると、「もしもし?」


スピーカーの向こうからはバーらしき騒がしい音に混じって、女の甲高い声が響いた。「あんた誰よ!?なんで深沢くんの電話に出てるのよ!」


遥は一瞬混乱したが、髪をかき上げてよく見ると、手にしているのは自分のではなく深沢陸のスマートフォンだった。


相手はまだ叫んでいる。深沢陸は眉をひそめて寝返りを打ち、不機嫌そうな顔で目を覚ます。遥は気まずそうにスマートフォンを差し出し、目で「代わって」と訴えた。


だが、深沢陸は枕にもたれて眉を上げ、「自分で始末しろ」とでも言いたげな仕草を見せる。


遥は内心で舌打ちしつつ、見知らぬ番号を睨みつけた。

その声から、相手が藤木真実だとすぐに分かった。言い返してやりたい気持ちを抑え、面倒を避けるために声色を変えて応じた。


「失礼ですが、社長はただいま会議中です。お名前とご連絡先をお教えいただければ、後ほどお伝えいたします。」


一瞬、相手が黙り込んだあと、疑い深く問い返してきた。「あんた誰?」


「私はモリー、社長室の新しい秘書です。」


藤木真実はさらに食い下がる。「聞いたことないわよ!深沢くんに代わって!今バーで飲み過ぎちゃって、迎えに来てくれなきゃ帰らないって伝えてよ!」


遥は呆れ顔で、深沢陸と目が合うと彼は面白そうに微笑んでいる。もうどうでもよくなり、通話を切った。「迎えに行かなくていいの?」


すぐにまた着信があったが、深沢陸は何も言わずにその番号をブロックし、逃げようとする遥を引き寄せて小さく笑った。「モリー?勝手に俺のスマホを触るなんて、これは仕事のミスだな。」


「てっきり自分のかと思っただけよ。」遥はすぐに言い訳した。彼のスマホなんて興味ない。


「モリーには罰が必要だな。」深沢陸はゆっくり遥の背中を撫でる。


そのとき、遥はようやく気づいた――この男、オフィスラブごっこを楽しんでいるのだ。


「どうした、モリー?黙っちゃって。」深沢陸が顔を近づけてキスをしようとする。遥は彼の胸を押し返す。「本当に行かなくていいの?もし何かあったら…」


深沢陸は少し苛立ったように目を細めた。「本気にしてるのか?ああいう電話、一日に何件も来るんだ。全部相手してたら、運転代行でも始めた方がマシだ。」


「用心に越したことはないでしょ。」遥は身を離そうとしたが、深沢陸は覆いかぶさってきた。「大人なんだから、自分の行動には責任を持てよ。俺は彼女の父親じゃない。」


彼は遥の手を頭の上で押さえる。「モリー、仕事には集中しろよ。」


遥は思わず吹き出した。「社長、ずいぶんせっかちじゃない?」


深沢陸はもう一言も言わせず、「小さな秘書」が彼の“せっかち”を思い知ることになった――。


一方その頃、藤木真実はイライラしながらもう一杯酒を煽っていた。呼び出された友人たちは口では「社長も忙しいのかも」と慰めつつ、内心では面白がっている。普段は藤木家の金持ちぶりに付き合っているが、このお嬢様のわがままにはみんなうんざりしていた。


スマートフォンが光ると、友人が「きっと深沢社長からだよ!」と声を上げた。


真実は拗ねたように顔を背けた。「別に気にしてないし。」


「ほら、きっと機嫌取りに来たんだよ。」友人がスマートフォンを手渡すと、真実は奪うようにして画面を開く。だが、そこにあったのは早川遥の調査報告だった。


資料をざっと目を通すと、遥はごく普通の家庭育ち。

高校一年の時に両親を亡くし、叔母を頼って上京。

地元の大学を出て、自分でマンションと車を購入、三原ホテルに勤務中。

家柄を除けば、東京でも十分いい相手が見つかる条件だ。――なのに、わざわざ深沢陸にちょっかいを出すなんて、許せない。


さらに下へスクロールしていくと、ある名前が真実の目を引いた。「美穂」。資料によると、彼女は遥と仲が悪いらしい。真実はにやりと笑い、美穂の連絡先を保存した。昨日電話に出たのが本当に秘書かどうかはどうでもいい。遥に味わわされた屈辱は、必ず返してやる――。


真実の騒動のせいで、遥はまたも深沢陸に夜遅くまで付き合わされることになった。


翌朝、外の物音で目を覚まし、慌ててスマートフォンを見るとまだ早い時間。

ホッとしながら服を着てリビングに出ると、深沢陸はすでにダイニングテーブルに座っていた。玄関には黒いスーツケースが置いてある。


遥はドキッとする。「出張?」


深沢陸は目を上げて、「生活用品だ。」


「……」遥は腕を組む。「私があなたの部屋に行けばいいじゃない。」


「ここがいい。」深沢陸はきっぱりと言う。


ワンルームで、ソファすら狭いのに、どこがいいのか。遥はじっと見つめてみたが、彼は全く動じない。


朝食後、着替えて出かけようとしたとき、遥はふと思い出して尋ねた。「昨日の商会イベントの話だけど、深沢グループに連絡してもいいって、私に特別扱いしてくれるつもり?」


「三原ホテルにそんなに自信がないのか?」深沢陸は返す。


三原ホテルは老舗で、全国主要都市で有名だ。彼が遥のためだけに適当に取引先を選ぶはずがない。遥は安堵と同時に少し寂しい気持ちにもなる。


「他にどこを検討してるの?」


「君が心配することじゃない。」商会が政府と連携してイベントを拡大する話はすでに業界で噂になっている。三原ホテルの上層部も深沢グループに接触済みで、昨日はたまたま話題にしただけだ。


「でも、三原ホテルの提案が良ければ十分チャンスはある。」


「てっきり、案件を私にくれるのかと思って、堂々と断ってやろうと思ったのに。」遥は冗談めかして言う。


エレベーターに乗ると、深沢陸が眉を上げて言った。「君は“貧しくてもぶれず、権力にも屈しない”んじゃなかったのか?」


契約の時のあの金に頓着しない姿勢はどこ行った?


「会社に自信を持てって言ってくれたでしょ。だから裏口なんて使わない。」


エレベーターを降りるとき、深沢陸が遥のお尻を軽く叩いた。「送っていこうか、モリー?」


まだそのでたらめな英語名を引きずっている深沢陸に、遥は呆れ顔で車のキーを押して見せ、きっぱり背を向けた。


「いらない、自分の車で行くから。」

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