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第43話 予期せぬ訪問者


深沢陸は、早川遥の車が朝のラッシュの流れに消えていくのをじっと見送り、指先でドアノブを軽く弾いた。


そのタイミングで西尾優一が近づいてきた。「深沢社長、伊藤裕久の件の追加資料が警察に届きました。」


「引き続き注視してくれ。」深沢はドアを開けて車に乗り込み、淡々とした声で続けた。「もう二度と東京で奴の姿を見たくない。」


「承知しました。」



早川遥は会社の駐車場に車を停めた瞬間、小林雪に呼び止められた。小林はホットコーヒーを二つ手にし、目を輝かせている。


「はい、受け取って!昨日の会、まさに神回だったよ。彼らのインスタもチェックしたけど、どの会社の周年イベントだけでも私たち半年は仕事に困らないよ!」


遥はコーヒーを受け取って一口飲む。温かさが喉を通ってゆっくり染みていく。「まずは今ある仕事をきちんと片付けよう。」


昨夜集まった面々は、みな一流企業の経営陣や有力者ばかり。名刺をもらえただけでも深沢のおかげだと遥は自覚していた。本当に仕事に繋げるには、実力が問われるのだ。


特に深沢が言っていた業界団体の合同イベントは、グループ上層部でなければ手を出せない大きな案件。遥はそこまで考えることすらしなかった。



オフィスに入った途端、鈴木蓉子の怒りを抑えた声が課長室から響いてくる。小林は慌てて遥を自分のデスクへ引っ張る。給湯室の前を通ると、同僚が声をひそめてささやいた。


「田中和夫が残した面倒が爆発したみたい。鈴木課長はこの機会に他の不満もぶつけてるんだよ。田中に取り入ってた人たちも、今じゃデスクに頭を突っ込んでる。」


遥がカバンを置いた途端、スマホがひっきりなしに鳴り始めた。画面を開いて思わず手元の資料を落としそうになる。昨夜の食事会にいた数人から立て続けに連絡が入り、今朝会社で打ち合わせしたいと言っている。四半期会議の会場予約、新商品の発表会、社員研修の企画まで、三原ホテルに任せたいという。


「ちょっと、すごすぎ!」小林が画面を覗き込み、息を呑む。「この案件だけで、去年一年分の売上超えそうじゃない!」


午前中、二人はデスクに張りつき、ひたすら顧客の要望を書き留め続けた。小林は楽しそうにメモを取りながら、「これが“棚からぼたもち”ってやつかな?深沢社長と食事しただけで、こんな大口が向こうからやってくるなんて!」


遥はキーボードの上で指を止め、どこか引っかかるものを感じていた。


しばらく迷った末、深沢にメッセージを送った。【昨夜の方々が今日会社に来てますが、何か話はされてますか?】


すぐに返事はなかった。そのまま内線が鳴り、受付から「応接室にお客様がいらしています」と連絡が入る。ひとまずスマホを置き、応接室へ向かった。



ドアを開けると、昨夜の顔ぶれがソファで談笑していた。遥が入ると、皆立ち上がってにこやかに握手を求めてくる。


すぐに仕事モードに切り替え、タブレットで三原ホテルのサービス案内を開く。「ご希望に応じて三つのご提案をご用意します。会場レイアウト、進行管理、トラブル対応まで含めて、最終的な内容は御社のご確認後に決定いたします。」


最初は深沢の顔を立てて「形だけ」のつもりだった彼らも、遥の的確な説明や細やかな気配りに次第に本気の表情になる。「うちは年次総会に同時通訳機材が必要」と一人が言えば、「発表会は報道席の優先通路を用意してほしい」と別の人が続ける。


1時間ほど打ち合わせた後、代表格の男性が笑顔で言った。「早川さん、プロだね。ご提案、楽しみにしているよ。」



顧客を見送って席に戻ると、オフィスはざわついていた。誰かが興味津々で話しかけてくるが、小林は「以前からやり取りしてたお客様が、たまたま今日決まっただけだよ」と軽く受け流す。


遥がスマホを手に取ると、深沢からようやく返事が来ていた。たった一言。【関係ない。】


彼女は画面を見つめて安堵し、企画部と打ち合わせしようと資料を開こうとした。その時、佐藤静怡がコーヒーを持ってやってきた。「忙しそうだね。水分補給も忘れないでね。」


「ありがとう。」遥はカップを受け取る。


「そういえば、双葉さんがいなくなってから、オフィスもだいぶ静かになったね。」佐藤は椅子を引いて隣に座り、何気ない口調で続ける。「もし手が足りなかったら、顧客データの整理とか手伝うよ?」


「今のところ大丈夫です。必要な時はお願いするね。」遥はにこやかに答えた。


佐藤が去ると、小林がすぐに近寄ってきて、口パクで「日和見主義!双葉さんと一緒だったくせに、今度はこっちに擦り寄るつもりか。そうはいかないよ!」と囁く。


「そんなこと言わないで。」遥は小声で返す。「みんな、自分の立場を守るのに必死なんだから。仕事の邪魔をしなければ気にしなくていいよ。」



昼休み、鈴木蓉子が遥を課長室に呼び出し、「至急」とマークのついた顧客リストを渡した。「この案件を優先して。来週には初稿が欲しいわ。」露骨なえこひいきに、オフィスの空気はますます重くなった。


午後、仕事に戻ったところで、また受付から「お客様がいらしています」と連絡が入る。遥は企画部でデザイン案の確認中だったが、佐藤が先に応接室に向かった。



「ご予約はされていますか?」佐藤はお茶を運びながら中へ入る。ソファに座っていたのは、今朝のビジネスエリートとは違う、中年の女性だった。サングラスに高級ブランドで固めた、ひと目で只者ではない雰囲気。


「早川さんを呼んで。」女性はサングラスを外し、圧のある口調で言った。


佐藤は笑顔を引きつらせ、「早川は今、他のお客様の対応中です。私が—」


「すぐに呼んで。」女性はプラチナのバッグをテーブルに置き、金具が甲高く響く。


佐藤はギリギリと歯を食いしばって廊下に出ると、ちょうど戻ってきた遥にぶつかった。「応接室にお客様。すごい偉そうな人よ。」


遥はその言い方も気にせず礼を言い、応接室へ向かう。ドアを開けた瞬間、仕事用の笑顔が凍りついた。ソファに座っていたのは、伊藤裕久の母親だった。


伊藤夫人は冷たい視線で遥を見上げ、「ずいぶんとご繁盛のようね。あなたに会うのも順番待ちが必要なのかしら?」と、まるで氷のような声で言い放った。

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