早川遥はノートパソコンを棚に置き、伊藤夫人の正面にある一人掛けのソファに腰を下ろした。無意識にスカートの裾を指でいじりながら、「今日は本当に忙しくて……何かご用でしょうか」と静かに声をかける。
ここは会社のテリトリー――自分は三原ホテルの代表としてここにいる。下手なことはできない。
遥は指先に力を込め、万一の時のため、騒がれたり、脅されたり、場合によっては手を出されることまで想定していた。警備員を呼ぶルートも頭の中でしっかりシミュレーションしてある。
だが、伊藤夫人は意外にも険しい表情を和らげ、組んでいた足をゆっくり下ろした。そして、少しかすれた声で言った。「そんなに緊張しないで。今日は裕久のことで謝りに来たの。」
遥のまつ毛が微かに揺れるが、顔には変化を見せない。
伊藤夫人はその無表情な顔をじっと見つめ、次第に目の縁が赤くなっていく。「もう……本当にどうしようもないのよ。頼れる人にはみんな頼んだ。でも、あの人(夫)はもう出てこられないし、裕久はまだ若いのに……」
急に声を詰まらせ、「あの子、あなたのことどれだけ大事にしてたか……私の言うことなんて全然聞かず、いつもあなたの話ばかりしてた。本当にあなたを好きだったのよ」と涙声になる。
遥はテーブルの水を一口飲み、喉の奥の苦しさを隠した。――本当に好きなら、あんなことはしない。別れた後のあの仕打ちも、到底許されるものじゃない。
「私たちが悪かったのは分かってる。裕久も、本当に申し訳なく思ってるの……」伊藤夫人は顔を拭い、やつれた顔で懇願する。
「でも、あなたは今幸せそうだから、昔のよしみで裕久にもう一度だけチャンスをくれない? あの子が出てきても、二度と迷惑かけないと約束するわ。私には裕久しかいないの……お願い、訴えを取り下げてくれない?」
「私が取り下げたところで、裕久さんが出られるとは限りません。」遥は水を置き、はっきりとした口調で答える。「彼がしたことは、付き合っている時から私に隠していたことです。刑がどうなるかは、私が決められることじゃありません。」
伊藤夫人は突然、遥の手首を強く掴み、目を輝かせて訴える。「深沢社長にお願いして! あの人が力を貸してくれれば、裕久はきっと刑を軽くしてもらえる。まだ二十代なのよ、このままじゃ人生が台無しになっちゃう!」
「……深沢さんのことは私には関係ありません。」遥の表情は一瞬で冷たくなる。「裕久さんが逮捕されたのは、警察が証拠を掴んだからです。誰かのせいにする話じゃありません。」
「自分でやったことなら、責任を取るのが当然です。これからのことを考えたほうがいいと思います。」
説得が通じないと悟ると、伊藤夫人はいきなり「ドサッ」と膝をついて土下座した。
遥は驚いて立ち上がった。「やめてください! 本当に私にはどうにもできません!」
「あなたならできるはずよ!」伊藤夫人は遥のズボンの裾をしっかり掴み、「裕久が言ってた。深沢社長が怒ってるのは、あなたのせいなんだって! 欲しいものは何でもあげる、家でも車でも!」
遥は力いっぱい手を振りほどき、ついに感情を抑えきれず声を荒げる。「私は何もいらない。もう十分はっきり言いました。私には何の責任もありません。」
応接室のガラス壁はブラインドで覆われているが、外の同僚たちの影がわずかに見える。このまま騒ぎになれば、みんなの笑いものだ。
伊藤夫人は望みが絶たれたと悟ると、立ち上がり、顔から最後の温情が消えて、憎しみに満ちた声で言い捨てた。「早川さん! これだけ頼んでも無視するなんて、いずれあなたも報いを受けるわ!」
バッグを掴み、ドアの前で振り返り、氷のような声で言い放つ。「夜道には気をつけることね。」
バタン、と応接室のドアが乱暴に閉まる。
外からは同僚たちの驚く声と、伊藤夫人がドアを叩きつけて出ていく音が聞こえた。
すぐに誰かがドアをノックした。「早川さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」遥は深呼吸し、ノートパソコンを手に微笑んでみせる。「お客様がちょっと感情的になっただけです。みなさん、仕事に戻ってください。」
自分のデスクに戻ると、指先がまだ震えていた。理不尽すぎる。――自分の息子が刑務所に行くのが、なぜ他人のせいになるのか。
ホテルのエントランスで、伊藤夫人が立ち止まったその時、一台の車がゆっくりと近づいてきた。藤木真実がドアを開けて降りてくる。「お母さん、どうだった?」
伊藤夫人は彼女の手を握り、また涙を流し始める。「あの子、裕久を助けてくれないって……今は深沢社長に取り入って、昔のことなんて忘れてるのよ。裕久はまだ若いのに、何年も刑務所になんて入ったら人生終わりよ!」
藤木真実は今朝、自ら伊藤夫人に連絡を取った。裕久の面会に付き添い、そのまま三原ホテルまで送ってきた。
口では「もしかしたら早川さんも昔を思い出してくれるかも」と言いながら、実際は遥を職場で困らせるのが目的だった。まさか伊藤夫人が深沢陸の名まで口にするとは思っていなかった。
「深沢社長と付き合ってるの?」藤木真実は思わず手のひらに爪を立てる。遥が自分の邪魔ばかりする理由が、ここにあったのか。
どうりで深沢陸が自分には冷たいと思った。全部、あの女のせい――。
「裕久が言ってたのよ。」伊藤夫人は悔しそうに語気を強める。「あの子が裕久の連れて行った集まりで深沢陸に近づいて、二人で裏切ったんだから! だから裕久も腹が立って彼女を尾行したのよ。うちの裕久のどこが悪いの?」
「全部あの子のせいよ。深沢陸も、女一人のためにうちをここまで追い詰めるなんて!」
藤木真実は全身が震え、嫉妬と怒りで胸が焼ける思いだった。そうか、裏ではそんなことになっていたのね。それで自分の前では清廉ぶっていたなんて!
彼女は伊藤夫人を車に乗せながら、わざと落ち着いた声で言う。「深沢くんも、きっと彼女に騙されてるんだよ。もともと、伊藤さんとも仲が良かったのに。」
伊藤夫人は鼻を鳴らして、不信を隠さない。
車窓の外を眺めながら、藤木真実はゆっくりと言った。「伊藤さんの件、私も噂で聞いてる……でも、もし早川さんも共犯だったら?」
バックミラー越しに、伊藤夫人の目が一瞬にして光を帯び、藤木真実と視線がぶつかる。お互いの目の奥に、同じ暗い決意を見て取った。
藤木真実はそれ以上何も言わなかった。こんな濡れ衣を着せるようなこと、自分が手を下すまでもない。ただ、成り行きを見届けるだけでいい。――早川遥に汚名がつけば、どれほど深沢陸が彼女を好きでも、前科者の女を選ぶはずがない。
その時こそ、深沢陸の隣に立つのは、自分だけだ。