伊藤夫人の訪問は、まるで棘のように早川遥の心に刺さり、午後いっぱい落ち着かない気持ちにさせた。小林雪は新しいクライアントの対応で忙しく、遥の異変には気づかなかった。
退社間際、スマートフォンが急に震え、“おばさん”の名前が画面に表示された。遥は廊下に出て電話を取る。
「もしもし、おばさん?」
「遥、もう仕事終わった?」大森淳子の声には旅の疲れがにじんでいる。
「今さっき飛行機降りたところなの。今夜はうちでご飯食べない?しばらく会ってないし。」
「うん、何か食材持って行こうか?」
「そんなのいらないよ、家に全部あるから。ちょっと片付けてから帰るね。」
電話を切ると、小林雪が顔をのぞかせた。「おばさん帰ってきたの?じゃあ早く行きなよ。こっちの仕事は私が見ておくから。」
「ありがとう!今度ご馳走するね。」遥はバッグを手に、足早にエレベーターへ向かった。
おばさんの家に行く前に、まず花屋でひまわりの花束を選び、果物屋で輸入チェリーを一箱買った。おばさんの家は西区の古い住宅街にあり、行くたびに昔の思い出が蘇る——みほとの喧嘩が多く、決して楽しい記憶ではなかった。
車を住宅街の入口に停めたとき、「早川さん?」と声をかけられた。
振り返ると、少し離れたところに買い物かごを持った赤間一恵がいて、笑顔で近づいてきた。
「赤間さんも戻ってこられたんですね?」
「そうなのよ。」赤間一恵は遥の手を取り、じっくりと見つめた。
「誠次がどうしても東京で働きたいって言うから、私も心配で先に戻ってきたの。あなたも、ますます素敵になったわね。おばさんから聞いたけど、三原ホテルで働いてるんですって?いい職場じゃない。」
「普通の会社員ですよ。」遥は控えめに笑う。
「そんなことないわよ。」赤間一恵は後ろを振り返り声をかけた。「誠次、こっちにいらっしゃい。ほら、遥ちゃんが来てるわよ。」
夕陽が空をオレンジ色に染め、古い家の青い瓦や灰色の壁があたたかな光に包まれている。梧桐の木の下に、黒いパーカーに短髪姿の赤間誠次が立っていた。
少年時代のやんちゃさは落ち着きに変わり、日焼けした肌が夕焼けに映えている。視線が遥に向けられたその瞬間、少しだけぎこちなさが見えた。
「久しぶり。」遥が先に声をかける。
赤間誠次は喉を鳴らし、遥の手にある紙袋に目をやった。「荷物、持つよ。」
「大丈夫、すぐそこだから。」遥は手を引っ込める。「卒業したばかりって聞いたけど、仕事はもう決まった?」
「うん。深沢グループ傘下のゲーム会社で開発をやってる。」
深沢グループ?
遥は少し驚き、すぐに微笑んだ。
「すごいね」
あの深沢グループに入れるとは、相当の実力だろう。
「何がすごいのよ。」と赤間一恵が口を挟む。
「父親は自分の会社に戻ってきてほしいのに、誠次はコードばっかり見てて、部屋にはパソコンが七、八台もあって、私なんか入るだけで頭が痛くなるの。」
赤間家はもともと海産物の卸をやっていたが、後に南のほうで不動産業を始めて成功した。その言葉の中の愚痴には、誇らしさも混じっている。
遥は大学時代、バスケットコートの横で「誠次、ご飯よ」と叫ぶ赤間一恵の声をよく思い出す。あの頃の誠次は、授業をサボってばかりのやんちゃな少年だった。
「母さん。」誠次は小さく咳払いして話をさえぎる。
「はいはい、もう言わないわ。」赤間一恵は遥の手を引いて住宅街の中へ。「おばさんとも久しぶりだから、いろいろ話したいわ。そうだ、今夜うちで食事しない?私と誠次だけじゃ寂しいの。」
「おばさんに挨拶してから伺います。」遥はその好意を断れなかった。
「それでいいのよ。」赤間一恵は目を細めて笑う。「あなたが好きだった梅味スペアリブ、今日ちょうど作ろうと思ってたの。」
誠次は二人の後ろを歩きながら、遥の背中に視線を落とした。そのまなざしには、失われた時間を埋めようとする想いがにじんでいる。
玄関前では大森淳子がすでに出迎えていた。赤間一恵にも笑顔で声をかける。「そちらも戻ってこられたんですか?」
「戻ってきたばかりなの。」
中に入ると、遥は自然に玄関でスリッパを手に取った。狭い玄関で振り返ったとき、背後の誠次とぶつかりそうになり、花束が揺れた。
「ごめんね。」慌てて体勢を直す。
「大丈夫。」誠次はそっと腕を支え、遥が安定すると手を離した。その指先には、まだ遥の服の感触が残っているようだった。
大森正一が書斎から出てきて、遥に微笑んだ。「そんなにたくさん持ってこなくていいのに。おばさんに気を使わなくていいよ。」
「おじさん、こんばんは。」遥は果物を手渡す。
「まあまあ、座って座って。おばさんは何日もあなたのこと話してたよ。」大森正一は誠次の肩を軽く叩く。「誠次も今は立派になって、深沢グループで働いてるんだぞ。」
遥は少しだけ安心した——みほの姿が見えなかったので、まだ学校から帰っていないのだろう。ここに来るたび、みほとのピリピリした空気に辟易していたのだ。
赤間一恵は話し好きで、南の気候の話から子どもの仕事まで、話が尽きない。誠次はソファの隅で静かに座り、昔のやんちゃな面影はもうない。
「そういえば遥、彼氏できたの? こんなに綺麗なんだから、きっとモテるでしょ?」
水を飲んでいた遥は、危うくむせそうになり、慌てて立ち上がった。「赤間さん、からかわないでくださいよ。彼氏なんていません。」そう言って台所へ逃げるように向かい、果物を洗うふりをした。
誠次の視線が一瞬だけ遥に向いた。
「本当にいないの?今が一番いい時期なのに、恋愛しないなんてもったいないじゃない。」
大森淳子が笑顔でフォローする。「今の若い子は考え方が違うからね。遥に無理に勧めるつもりはないよ。」
遥が台所でリンゴを手に取ると、背後から足音が聞こえた。てっきりおばさんだと思い、「おばさん、今回の出張はうまくいった?」と声をかける。
しかし、台所の入り口には果物皿を手にした誠次が立っていた。
「手伝おうか?」
「びっくりした! おばさんかと思った。」遥が驚いて振り返る。
予想外の会話で、気まずさが少し和らいだ。誠次が遥の手からリンゴを受け取ると、ふと指先が触れ合い、二人とも一瞬動きを止めた。
「そんなに怖い?」誠次は少し低い声で言った。
「違うよ。」遥は視線を外し、話題を変えた。
「あの……誠次は、彼女いるの? 」
リンゴをむいていた誠次の手が止まり、ふと遥を見上げる。台所のあたたかな光がその瞳に映っていた。
「いないよ。」