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第2話 銀糸の髪の呪縛

 こんなにも強い英雄に守られた領地に住んでいるという誇らしさと、冷めやらぬ興奮を発散すべく上げられた大音声。その渦中、すべての声援を一身に受けた侯爵は、やはり表情一つ変えずに面を伏せている。

 城壁下に降りる階段の鍵を開けることに躍起になっている騎士隊長と騎士団長もまた、今すぐに侯爵に駆け寄り、再び騎士の誓いを捧げようと気を逸らせていた。


 その姿に、エルマがわずかに表情を曇らせた。


「騎士、領民の皆々様」


 また、通る声が場を支配した。

 あれほど昂揚していた人々が、静かに発されたはずの一言を機に静まりかえる。


「主人に対します敬愛と親愛のお気持ち、篤く御礼申し上げます。恐らく主人も、なによりもその気持ちに応えたいのではないかと存じますが──昨夜からの疲れもあり、もはや腕を上げて応えることもむずかしいご様子。今夜のお出ましのこともございます。皆さまのお気持ちは明日の夕刻、承る時間を設けたいと存じます」


 あぁ、と哀れむような声がそこかしこに溢れた。

 夜明けまで王都で死者を屠り、領地に戻って体を休めようとした矢先にこの事件だということを、全員が失念していた。だからこそ、これ以上我らが英雄に無理をさせてはいけないという自制の気持ちが働いたのかもしれない。

 どこからともなく拍手が沸き起こり、歓声ではなく、賞賛の音が場を包み込んだ。


 その中で、エルマは城壁を見上げる。


「アベル・ノクスウェル様。お手数かと存じますが、馬車を門外に出していただけますか。ご主人様を迎えに参りたいのです」

「私か? あ、あぁ、もちろん」


 先ほどのことをまだ根に持たれているのだろうかと戦々恐々とする気持ちも燻ったまま、了解する。

 隊長や団長から少しばかり嫉妬の目を向けられつつ階段を降りようとしたアベルは、ふと足を止め、階下のエルマに声を投げた。


「エルマ嬢! 馬車は私が侯爵様のおられる場所まで運ぼう。君は先に、侯爵様の元へ行って差し上げてくれ。お疲れとあらば、慣れた者と一緒の方が侯爵様も心丈夫だろう!」

「けれど、それでは」


 一瞬言い淀み、わずかに眉間に皺を刻んだエルマだが、思い直した様子でアベルを見返す。


「お心遣い、痛みいります。それではそのように」


 美しいカーテシーを見せると、エルマはするりと、腐臭に塗れた地面を滑るように侯爵へと駆けていく。

 それをほんの少しだけ見送り、慌てて城壁を降りて馬車の手綱を操ったアベルだったが──あわよくば侯爵へ挨拶だけでもと考えていた下心は、数分と立たず、もろくも崩れ去った。


 ぷぅんと音を立て、大地をハエが飛び交い始める。死人達を埋めるまでは見慣れた光景だ、もはや不快感すら麻痺している。

 しかしそれでも、ついさっきまで興奮状態で声援を送り、一緒に戦える誇らしさに胸を焦がしていた相手の眼球にハエが止まる光景は、初めての衝撃だった。


「エ、エルマ嬢! なんっ……なんだ、これは!!」

「これと呼称なさることは許容いたしかねます。それにこの方がどなたでいらっしゃるかは、アベル様もご存じのはず。この方は護国の英雄、グレイヴ・レイヴンクラスト様で──」

「そんなわけがない!!」


 言葉の終わりを待たずしての否定に、エルマは表情を崩さない。

 対してアベルは困惑を極め、その緑の瞳に涙さえ浮かべていた。


「レイヴンクラスト侯爵は……毎夜王都に出向き、王都奪還に向けて死人を屠る英雄だろう! その剣筋も美しく、余人を以て代えがたいお方だ! さっきだって、あんなに活躍なさって……!!」

「あれは、私がご主人様からご命令のあったとおりにしただけのこと」


 さらりと言ってのけられた言葉に、アベルは耳を疑った。


「……命令? 侯爵様からの?」

「はい」

「では、やはり本物の侯爵様は生きて……」

「こちらにおわすお方が、グレイヴ・レイヴンクラスト様です。他の何人も、ご主人様に代わることはできません」

「──意味が分からない」


 要領を得ない話に頭を抱える。

 エルマに動揺した様子はなく、アベルばかりが狼狽する事態に、思考が追いついていなかった。

 そんなアベルを見つめ、エルマは小さく呟く。


「アベル様、侯爵邸においでください」

「……え?」

「詳しい話をお知りになりたいのでしょう。ご主人様のお疲れを取って差し上げながらになりますが、それでもよろしければお話しいたします」

「話しても、いいことなのか?」

「アベル様であれば」


 引っかかる物言いに、アベルの眉根が寄せられる。

 考えてみれば、アベルがエルマと面識を得たのは今日が初めてのことだ。当然、エルマの名前も知らなかったし、どんな出自なのかすら知らない。にもかかわらず、エルマは初対面の時点でアベルの名前を知っていた。

 そこになにか意味があるのかと、好奇心が疼いた。


「わかった、ならばのちほど侯爵邸に伺おう。そのときに──」

「いえ、おいでになるのならこちらの馬車にご同乗ください。そのほうが手間も省けます」

「……まさか、侯爵様と同乗しろ、と?」


 一気に、額から血が下がっていく音がした。

 未だ侯爵の顔にはハエが止まっている。腐臭はほとんど感じないが、それでも屍然とした侯爵と同席するのは、考えただけでもゾッとする行為だった。


「可能であれば……私が御者を務めよう。仲間たちに対しても、連戦で疲れ切った二人を送り届ける栄誉に恵まれたとでも言い訳が立つ。幸い馬の扱いは得意な」

「そうですか、でしたらよろしくお願いいたします」


 先ほど話に割り込んだ意趣返しかと疑うほど、取りつく島もない返答で会話を切り上げられる。

 しかしそれも自分が先にやったことだと納得し、アベルは再び御者席に飛び乗った。


 ただ、いかに平常を装っていてもエルマは女性だ。屍と同席させるのは些か酷だったかと思い直し、やはり自分が車内に座るべきではと口を開きかけたところで──アベルは言葉を失った。


「ご主人様、帽子をこちらに。どうぞ足元にお気をつけて」


 当たり前のように、エルマは屍を侯爵その人として扱っていた。

 どういうカラクリかは知らないが、先ほどまで身じろぎ一つしなかった侯爵の体も、ごく自然な動作で車内への階段を上がる。エルマを冷たく見下すような視線さえ、ハエが止まっているというのに、あまりに侯爵その人の仕草だった。


「……悪い夢みたいだな」


 扉が閉まるのを見届け、鞭を振るう。今にも落ちそうだった空は晴れ間を見せ始め、霧も次第にその子さを薄めてはいたが──ぬかるんだ大地は、馬車の軋みを飲み込んで轍を刻んでいた。



   ◆   ◇   ◆



「ご主人様がこうおなりになったのは、二度目の王都解放に向かった際でした」


 エルマが話を切り出したのは、屋敷に着き、侯爵の部屋に入ってすぐのことだった。


「その日も私はご主人様に同行し、ご主人様に命じられるまま、ご主人様のお体を用いて死人達の首をはねておりました。剣筋に一切のよどみはなく、滞りなく再葬を行って──」

「待って。ちょっと待ってくれないか、エルマ」


 朝出会ったときに持っていた籠の中の物を絞り、掻き出し、潰し、攪拌しながら淡々と話を進めるエルマの言葉に、アベルは慌てて待ったを掛けた。


「待ってくれ、すでに話が見えない。侯爵が亡くなったのは二度目の王都解放の時で、ここまではいい。で、なんだって? 君が? 侯爵様の体を用いる?」

「はい」


 エルマはアベルと会話しながらも、その顔を一瞥もしない。

 ただ侯爵にのみ傅き、ハットを脱がせ、破れた上着を脱がし、シャツをも脱がせて、戦いの疲れを労るように、先ほど加工していた物に油を混ぜて、そっと体に塗り込んでやっている。ぬらぬらと濡れたその指先はエルマの口調の冷たさに反し、妙に体温を感じさせた。


「私はそういった血筋の者らしいのです」


 首筋に、肩に、胸元に、エルマの指が這う。

 ただその表情は、落ちた前髪で隠され、盗み見ることができない。


「かつてレイヴンクラスト家のご先祖様が私の先祖と組み、そういう契約を交わしたのだそうです。常人よりも身体能力に優れていた先祖が、爵位を欲したレイヴンクラスト家の方と組み、肉体を操ることで戦果を上げたのだと。この銀糸の髪が、その血の証だとご主人様がおっしゃいました」


 エルマの手は、侯爵の両頬を包んでいる。

 下まぶたをなぞるようにゆるりと動く親指に、不意に力が入った気がした。

 そのすべてを見守りながら、アベルは首を傾ぐ。


「君の話はすべて伝聞じゃないか。侯爵様に聞いたのか? 君の親からは、そういう話は聞かなかったのか」

「はい。物心つく前に、孤児院に捨てられておりましたので」


 この言葉に、アベルは自らの口元を強く叩くように覆う。しくじったと言わんばかりの表情に、エルマは入室して初めて、アベルを見返った。


「お気になさらず。その点については、なにも感傷はございません」

「いや、失礼な物言いをしたことは謝罪する。申し訳ない」

「いいえ。──ご主人様はそこから、私を買い取ったんです。そして今の話を聞かせてくださいました」

「じゃあ、侯爵のあの太刀筋は……あの方自身のものではなく、君の……」

「それは違います。あの方は一切の怠惰を放棄し、ご自身で完璧な護国の体現者となるべく努力を重ねておいででした。ただ」


 ポツリと、言葉が途切れる。


「ただ、私にはそれ以上の努力をお求めになった。それだけです」


 その声色には、悲嘆と苦悩、そしてアベルには形容のし難い別のなにかが混じっている気がした。


「その甲斐もあり、死人が出てからのご主人様はすぐに護国英雄として歓声を浴びました。自らの領地を守りきっただけでなく、王都までの道々にある墓地に出る死人達までも屠り、流通の守護者とすら呼ばれました。──ですから、当時の私はどこか、浮ついていたのかもしれません」

「なにがあったんだ。二度目の王都解放で」

「──銀糸の髪をした、男がいたんです」


 その一言で理解した。

 侯爵から聞かされた血筋の話と、その血筋を証明する髪色。

 つまりエルマはその男を、一目で血縁者だと認識してしまった。


「ほんの数瞬です。いいえ、ほんの数瞬だったと思います。けれど確実に、私の意識はご主人様から離れ──ご主人様は足元のレンガに足を取られてバランスを崩すも、振り上げた腕の速度だけは制御が効かず」


 そろりと、エルマの手が侯爵の髪をまさぐる。

 次の瞬間、アベルは迫り上がった悲鳴を喉の奥で押し殺した。


「ご主人様は自らの手で、頭を割っていました」


 そこにあったのは、生々しくも暗い緑色に腐食が始まっている縫い跡だった。


「死人達に食らいつかれる前に、ご主人様のお体を自力で戻るよう操作はできましたが、すでに絶命なさっていました。──これが、すべてです」


 しばしの沈黙が室内に満ちる。衝撃的なことが一度に襲いかかってきた感覚に、アベルが吐き気を催していたのが正確なところだった。

 それでもやがて喉元に上った酸味を飲み下し、アベルは涙目になって唇を開く。


「……すべてじゃないな」


 睨みつける視線に、エルマがまばたきだけで先を促した。


「侯爵様が君に非道を働き、道具のように扱ったのは察した。しかしそれならなぜ、君はまだ彼の道具に徹している。彼に命じられたこととはなんだ」

「たとえ死んだとしても、私に仕えよと」


 あまりにも、こともなげな言い様だった。愕然としたあとアベルは頭を抱える。


 奴隷を抱える貴族が、戯れに口にする言葉だ。よほど利用価値のある奴隷に対してなら高額な蘇生魔術を施して、言葉通り何度死んでも解放しないこともあると聞く。

 けれどそのほとんどは、悪質な冗談だ。奴隷が絶望する表情に暗い愉悦を覚える者にとっての口癖のようなものと言ってもいい。

 それをエルマは真正面から受け止めている。いや、それも違う。


「侯爵が死んでも? 侯爵が死んだとしても変わらず仕えろと命じられた、そう理解したのか? バカな……」


 普通なら、非道な扱いを受けたならその分だけ、主人が死んで解放される喜びに涙するものだ。しかしエルマはそうではない。

 非道な行いをされてなお、侯爵を侯爵のまま維持しようとしている。

 それは狂気としか思えなかった。


「君は侯爵様を──グレイヴ・レイヴンクラストを、愛しているのか?」


 大きな窓から、陽光が降り注ぐ。それがエルマの銀糸の髪を美しく照らし出すのを眩しい思いで目を細めたアベルは、逆光となった彼女の表情が、一切変わっていないことに目を見開いた。


「愛? それはなんでしょう」


 誤魔化しとは思えない声色だった。


「ご主人様は、私に教えてくださいました。人間の価値、道具の意義、命令の重み。そして私は覚えています。あの方がいかに私を手酷く扱ったか。いかなる言葉を吐き捨てたか」


 彼女の手が、ちゃぷりとまた油に浸る。


「それを忘れないために、私は胡椒やセージ、唐辛子で防腐を施し、ヒノキ油やドクダミ、ラベンダーで殺菌を施す。ご主人様をご主人様のまま保持しているのです」


 アベルは、息を呑んだ。

 あの籠の中のものは、そのためのものだったのかと目眩がした。


「そうまでして、なぜ……」

「なぜ?」


 エルマの目が、まっすぐにアベルを見る。


「だってそのほうが、壊す時──気持ちがいいじゃありませんか」


 エルマがアベルを前にして初めて浮かべた明確な表情、華やかなまでの微笑だった。

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