夜明けを迎えた侯爵領では、今日も華々しい掛け声と共にニュースペーパーが空を舞う。仕事へ向かうはずだった誰も彼もがそれを手にして、その文面のめでたさに、侯爵様万歳と声を張り上げた。
紙面に踊るのは、王都の一角が新たに解放されたという見出しだ。そこには昨夜エルマと共に、無言のまま死人の首を薙いだ紳士の肖像が描かれていた。
「私ら、本当に侯爵領に住んでてよかったねぇ」
「侯爵様は護国英雄のお血筋だからなぁ。他のお貴族様があたふたして死人に食われてる間にも、ちゃあんと守ってくださって。ありがたいこった」
「昔は王都の華やかさに憧れたもんだけど、……ああなっちゃあね。今じゃあっちこっちから逃げてきた連中で溢れて、ここが王都の賑わいだよ」
「国王ご一家も、今は無事かどうか分かりゃしないんだろ? 王太子殿下なんて、お生まれになったばかりだったのに……」
「王都中の教会から一斉に死人が起きたってんだからねぇ。……なんでこんなことになっちまったんだか」
領民たちは侯爵を讃えながら、口々に現状を悲嘆する。
「陽の出てる内は墓に戻ってる死人がほとんどだって言うけど、なんせこれまで死んだ連中、全部湧いて出てるんだろ? 昼間に歩ける奴だってとんでもない数だよ」
「それを侯爵様はメイド一人連れて、夜中に撫で切りにしていってるんだ。すげぇ話だよなぁ」
「教会一つ分の死人どもを始末すりゃ、その教会までは王都が開放される。……途方もない数だが、侯爵様にお縋りしてりゃあなんとかしてくださるさ」
それでも、その口調は明るく、楽観的だ。生活が脅かされる心配など対岸の火事といった様子で、世間話として消費されている。
もちろん元の住居を追われた人々の前では神妙な顔でその嘆きに共感するのだろうが──それが察せられるからこそ、その感傷の薄っぺらさが目についた。
騎士の制服に身を包んだ青年は不愉快そうに目を細める。
「……レイヴンクラスト侯爵がお強いことは確かだけど、侯爵だけが死人を殺しているわけじゃないのに。ここを守ってるのは誰だと思ってるんだ」
呟かれた不満に、他の騎士達も苦笑いで同調しつつ、その肩を叩く。
目立つ功績が持て囃されるのは仕方ないと笑い飛ばしてくる同僚達に、それでも納得がいかないと唇を尖らせた青年の隣に、静かに影が立った。
「アベル・ノクスウェル様。ご主人様に、なにかご不満でも」
「え、うわぁ!?」
突然の声かけに、アベルと呼ばれた青年がその場を飛びのく。
アベルの視界の下、ちょうど死角になる場所に立っていたメイドの姿に、アベルは跳ねた心臓を落ち着かせるべく深く息を吸った。
「君は──」
「エルマと申します。ご主人様に随行しておりますメイドにございます」
返答に、アベルだけでなくその場の騎士、そして居合わせた民衆の誰もが息を飲む。
侯爵が王都に出向くのは、いつも黒い馬車を使う。御者を務めるメイドは頭から黒衣を纏い、領民にすらほとんど姿を見せなかった。
その理由は、王都に辿り着くまでは極力死人に発見されないようにするためだと了解もしている。誇りにこそ思えど、不気味に思うことはこれまでなかった。
しかしその当事者が目の前に現れたとなれば、話が変わる。
尊敬している侯爵なら歓声の一つも上がるが、相手は死人殺しに随行しているメイドの方だ。うら若い女性が深夜、侯爵に命じられてのこととは言えど、血生臭い死地に毎夜通っている。
実在したのかという驚きと共に、畏れを抱いてもおかしくはなかった。
「あ──」
ようやく声を発したのは、アベルだった。
「すまない、私は決して侯爵様に不満を持っているわけではないんだ。むしろ尊敬している。誤解を生んだのなら」
「謝罪は必要ございません。ご不満がないのであれば、それで結構です」
ぴしゃりと撥ねつけるような言葉に、ますます場を支配する気まずさは増加した。
やがて一人、また一人そそくさとその場を去って行ったが、エルマが隣に立ったアベルだけは、その気まずさから逃げ出せない。
目を泳がせ、頭を掻き、えぇとと言葉を濁した挙げ句、アベルはエルマが手にしている籠に目を留めた。
唐辛子に南天、いくつかの草花が収まっている。
「それは、ハーブかい? 眠気覚ましかなにかに使うのか」
「いいえ、私ではなくご主人様に。──眠気の件はお気になさらず。ご主人様にこちらを塗り込ませていただいたあと、私も少々休みますので」
「そうか」
恐らく疲労回復の薬にでもなるのだろうと推測し、それではと去っていくエルマを見送る。
その背中が見えなくなった頃、ようやくになってアベルの周囲に戻り始めた騎士達は、エルマの容姿とその冷たい雰囲気について、あれこれと噂話を始めるばかりだった。
よくも逃げたなと仲間を小突いたアベルの目元に、不意に影がさす。
「……あれ」
見上げると、頭上には厚い雲が垂れ込めていた。
重々しい濁った灰色の雲は、まるでずっとそこにあったかのように鎮座している。だが、そうでないことは、それを目にした全員が知っていた。
ガロンガロンと、不吉を知らせる鐘の音が鳴り響く。
「雲だ! 雲が出た!!」
「門を閉めろ、騎士達は城壁の上で配置につけ!! 連中が──」
「死人どもが、来るぞ!!」
砲撃の準備を整えた騎士達が、固唾を飲んで城壁の彼方を凝視する。何度やっても慣れることはない恐怖が、彼らの喉をひりつかせていた。
遙か彼方には青空も見えるが、まるで侯爵領を中心とするように、雲は円形に広がっている。
そして雲の発生からほどなく、城壁の彼方から霧が立ちこめるのが見えた。
「……ああ、やっぱり。まだ処理の終わってないところがあったんだ」
天を仰いだ騎士の目には、蠢く死が見えていた。
「西南の方向、恐らくは領外の連中です」
「だな。たぶん壁外の農民たちが埋葬していた死人を、地元の連中が首をはねる決断もできないまま隔離したつもりになった結果──地元愛の強い連中と、食糧を求めてうろついていた領外民を仲間にして、乗り込んでこようとしてる」
馬鹿者どもめと罵る騎士隊長の目元は、それでも侮蔑ではなく同情に歪んでいた。
蠢く死人は誰かにとっての顔見知りや友人、親類だ。地元に愛着を持ち、埋葬地を地元に作る地域ならばそれだけ、その確率は上がる。
たとえ腐っていたとしても、見知った相手の首をはねたい人間などいるわけがない。
だからこそほとんどの騎士は、城壁の上から砲撃するに留め──あわよくば首が落ちてくれていればと、神に祈る。
アベルもまた、その一人だった。
「連中、なんで侯爵領を目指してるんだ」
現在王都は陥落し、多くの貴族が死人に成り下がったと言えど、ほかにもいくつかの領地が生き残っている。さらに畜産を行っている農家の人間は、家畜小屋に身を隠せばその多くが死人達から見逃されていることも分かっていた。
にもかかわらず、侯爵領周辺で発生した死人は──この数週間、間違いなく城壁を目指して這い寄っている。その不可解さに、眉根を寄せたときだ。
「っわ、あぁああ!!」
城壁の中から悲鳴が上がった。
「な……ッ!」
まさかと声にも出せず、狭間に取りすがる。見下ろした場所は、昨夜処理を終えた死人達を埋めた、簡易埋葬地だった。
そこからずるりと一体の死人が起き上がり、領民達が逃げ惑い始めている。
「首を落としていない死人を埋めたのか!!」
監視塔から騎士団長の怒号が響くが、誰の失態にしろ、それに恐縮している時間はない。
城壁に上がる階段はゲートハウス以外にも数カ所あるものの、死人が侵入したときのことを考え、いずれも出入りが終わった際には二重に施錠がされている。さらにその鍵は騎士団長と各隊長が所持しており、少なくとも監視塔に騎士団長が立っている以上、領内の死人の処理が間に合わないことは明白だった。
絶望が脳裏を掠めるその視界に、橙色の光が揺れる。
「ご主人様、こちらでございます」
魔光石の灯ったランタンが、すっかり霧に閉ざされた領内を照らす。長いポールの先でそれを揺らし、白く澱んだ死人の目に暖色を映したのは、先ほどアベルが出会って気圧されたエルマだった。
二頭の黒馬と黒塗りの馬車を操る彼女は、長いメイド服の裾を滑らせるように地面に降り立ち、伏せるように頭を垂れる。
その慇懃な仕草に応えるように馬車の扉が開くと──目深にハットを被った、レイヴンクラスト侯爵が歩み出た。
「侯爵様」
「侯爵様だ」
「グレイヴ様」
「レイヴンクラスト侯爵様……」
さざ波のような期待の声に、応える様子はない。むしろ耳にしてもいないかのようにそのまま──
ただ歩くように、死人の首を落とす。
予備動作も戸惑いもなく、あたかも手についた埃を振り払う程度の自然な動作で、侯爵は領内で蠢いていた死人を処分せしめて見せた。
城壁の上、そして逃げ惑っていた領民の間にも、沈黙が流れる。
そして次の瞬間、爆発的な歓声が上がった。
しかし。
「ご開門を!!」
その歓声を突き抜け、エルマの声が門番の耳を刺す。
威圧感はなく、ただ鋭いばかりのその声音に、誰もが咄嗟に肩を跳ねさせた。
再度の沈黙を受け、エルマが侯爵を導くように前に出る。
「ご主人様のおでましです。門正面はご主人様が一掃くださいます。騎士団の皆様方におかれましては、左舷右舷に分かれて砲撃くださいますよう」
淡々とした指示と、迷いなく門前に立つエルマの姿に、慌ててかんぬきが引き抜かれる。開門の掛け声と共に軋んだ音を立てて開かれた大門からエルマが一歩外へ踏み出すと、道標のようにランタンが前へと突き出された。
「ご主人様、どうぞお掃除を」
言葉とともに、圧倒的な虐殺が霧の中を染めた。
食らいつかれそうになっても一切恐れず、衣服が裂かれようと一切怯まず、ハットには死人達の爪先すら触れさせないまま、するりするりと首を落としていく。
腐っていようとも骨もあり、肉もある。容易く断ち落とせるものではない。にもかかわらず、力んだ様子一つ見せずにその無茶を成し遂げていく侯爵の姿を、騎士達はまるで夢でもみているかのような心地で見つめていた。
やがて左右から死人達が襲いかかろうとする姿に、騎士団長が我に返る。
「ほ、砲撃開始!! 死人どもを侯爵様に近づけさせるなぁ!!」
──そこからは、もはや祭の様相だった。
砲撃音と、鉄球が大地を砕く音は元より、たった一体の死人を相手に逃げ惑っていたはずの領民達が、我先にと城門から出て侯爵へと歓声を投げる。はたまた死人達への野次すらも投げる様子は、賭け試合が催されているコロシアムと同等の有様だった。
領民達はいつも、王都解放に出陣するグレイヴ・レイヴンクラストを見送ることはできても、その勇姿を目にすることはない。それがまさか目の届く場所で繰り広げられているとあって、民衆は熱狂に湧いていた。
砲弾が霧を巻き上げることにさえ、昂揚した声が上がる。
「……ははっ。すごい騒ぎだな」
先ほどまで感じていた恐怖など忘れ、興奮状態で砲弾を仕込む同僚達の姿に、アベルも頬を紅潮させて笑いをこぼす。まるで殺戮を楽しんでいるかのような錯覚に、ほんの一瞬寒々しいものを覚えるが──やはり、それは次の瞬間忘れ去られていた。
やがて、襲い来る死は倒れ尽くす。
無数の首と肉片が散らばる地面にただ一人悠然と立つ侯爵の姿に、最後の歓声が上がった。