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第4話 ラフマニノフを口ずさむとき

 真柴ましば瑠可るかの演奏を聴きに、初めてお城の近くのスプリングホールに行くことになった。9歳の少女は、わくわくするといつも頭の中に流れる、お気に入りの曲を口ずさむ。未知の世界を覗くことへの期待感が高まった。




 大城おおしろ有紗ありさがピアノを始めたのは、幼稚園の年長の時だ。有紗は、いつも幼稚園の先生にキーボードで伴奏してもらい、いろいろな歌を歌う時間が好きだった。先生が鍵盤の上で軽やかに指を動かすと、きらきらと音がこぼれて部屋を満たす。いつまでもそれを聴いていたいと思った。

 有紗が暮らすマンションには、ピアノを習っている子どもが比較的多かった。休みの日はいつも、どこかしらからピアノの音がする。ほな私も、と有紗は父と母に言ってみたが、夕飯の食卓は一瞬しんと静まった。

 母は少し難しい顔をしていた。それを見た有紗は、両親にとってあまりよくない話をしてしまったと直感した。


「ピアノなぁ……2年や3年やったら、山口やまぐち先生みたいに弾けるようにはなられへんねんで? 有紗に続けられるか?」


 山口先生は、年長クラスの担任で、園で一番ピアノが上手な人である。母は、有紗が山口先生に憧れているのを知っていたが、まさか自分が弾いてみたいと言い出すとは思わなかったのだろう(と、あの時を振り返って有紗は思う)。

 幼い有紗は考えた。2、3年では弾けるようになれない。では何年くらいかかるのだろう。5年なら小学4年生、10年なら中学生。でも、山口先生はもっと大人だから、20年?

 そこで有紗ははっとした。


「ほんなら、私がピアノ弾けるようになるまでに、お父さんもお母さんも死んでしまうん?」


 これには父が爆笑した。何も面白くないやん! 有紗は馬鹿にされたと感じたが、続く父の言葉はあくまでも真面目で優しかった。


「まだ死んでへんやろ、でもずっと練習して、将来凄い曲聞かせてもらえるんかな?」


 それは、わからないと思った。有紗が返事に困ると、大学生の時からずっと合唱を続けている母が、これも真面目に言う。


「有紗、音楽は練習せな上手にならんもんや……近所の人、みんな日曜日も練習してはるやろ?」

「うん」

「難しい曲も出てくるし、有紗がちゃんと弾かれへんかったら、先生に怒られることもあるかもしれんで」


 そんな。それは嫌や。

 有紗には、両親と4人の祖父母から可愛がられているという自覚がある。家族から強く叱られた記憶が無いし、幼稚園でも、男子のようにくだらないいたずらなど一切しないので、先生にも怒られたことはない。


「弾けへんかったら、怒られるん……?」


 有紗が弱々しく訊くと、もしかしたらな、とあっさり母は答える。


「だってうちらも、同じこと言わさんといてくださいって、合唱の先生に怒られるもん」


 すると父は、苦笑しながら母に突っ込んだ。


「志穂さんの合唱団はみんな社会人で、個人練習する暇無いんやし、しゃあないやん」

「そやかて、うちら本番にプロと共演するし、あまりに下手くそやったら怒られるわな」


 微妙に逸れてるなと有紗は思ったが、今すぐ結論を出せないと思い、ピアノを習う話をそこで止めた。

 有紗の中で一旦しぼみかけたピアノへの思いがぶり返したのは、その1週間後だった。日曜日の夜、リビングで居眠る父を風呂に追い立てた母が、クラシック音楽の番組を見始めた。母と入浴を済ませた有紗はもう寝るつもりだったが、赤いドレスを着たブロンドの髪のピアニストが登場し、オーケストラの前に置かれたグランドピアノの椅子に座ったのを見て、心惹かれた。だから、ちょっとだけ見たいと母にせがんだ。

 外国人の女性ピアニストは、たくさんのプレイヤーが並ぶオーケストラに負けない音で、激しいけれど美しいメロディを奏でた。彼女の顔がアップになると、笑顔で挨拶した時とは別人のような真剣な目をしていて、怖いくらいだ。たまに指揮者を見上げ、すぐに鍵盤に向き合って、腕を振り上げ全身で弾いていた。

 すごい。テレビから出てくる音以外、何も聴こえなくなった。たくさんのメロディが次々と押し寄せてきて、息をするのも忘れそうだ。あっという間に十数分が過ぎ、音楽が一度切れたところで、父が浴室から出てきた。


「お、有紗、もう寝なあかんで」

「今1楽章終わってん、ええタイミングやし寝かしたって」


 母の言葉に、え、と有紗は思わず言ったが、ちょっとだけという約束だった。仕方なく寝室に行き、父と一緒にベッドに横になった。

 父はすぐに寝息を立て始めたが、有紗はなかなか寝つけなかった。鍵盤の上を縦横無尽に動くピアニストの両手、オーケストラのいろいろな音とブレンドしたピアノの華やかな響き。あんな曲が存在し、人間が演奏すること自体が、驚きだった。

 20年練習したら、自分もあれを弾けるようになるだろうか。絶対無理だ。でも20年間、毎日ピアノに向かったら、少しは弾けるようになるかもしれない。

 有紗はその翌朝、幼稚園に行く前に、ピアノがやりたいと母に伝えた。母は目を丸くしたが、夜にお父さんにもお願いしてみ、と静かに答えた。



 それから丸3年。有紗は、父方母方双方の祖父母から買ってもらったアップライトピアノを、ほぼ毎日弾いている。

 教室は、母がインターネットと近所の口コミで見つけてくれた、近所に住む先生の自宅だ。優しい女性で、弾けなくて叱られたことは無いが、昨年、体調が悪いのを我慢してレッスンに行ったときは、厳しい口調でお説教されてしまった。


「しんどいときに練習しても、身につかへんから帰りなさい……先生も家族も有紗ちゃんのこと心配になるやろ? 無理はしたらあかん」


 有紗は先生に送ってもらい、しょんぼりと帰宅したが、毎日練習するためには、身体を大事にしなくてはいけないと学んだ。

 1年に1回、秋の初めにおこなわれる教室の発表会では、各々個人指導を受けている同世代の子たちと顔を合わせることも楽しみだ。そんなひとときから、真柴瑠可というピアニストの情報を仕入れた。彼はコンテストの決勝で、有紗が6歳の時に初めて聴いて衝撃を受けた、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾き、入賞したという。

 真柴がフルーティストの叔父、悠貴ゆうきの同級生だと父から聞いた時は、本当に驚いた。あの曲の第2楽章には、フルートのソロとピアノが対話するような部分がある。悠貴と真柴の演奏で聴いてみたいと有紗は思う。

 有紗はそのピアノのメロディを口ずさんだ。来週のコンサートはソロだから、これはプログラムには無いのだけれど、いつか真柴が弾くのを聴きたい。そして大人になったら(あの曲は手が大きくないと弾けない音形があるので、子どもには難しいのだという)、ピアノの先生から教えてもらうのだ。

 差し当たっては、再来月の発表会で弾く、ブルグミュラーの2曲を完璧に仕上げよう。ラフマニノフへの道のりは遥か遠いけれど、有紗の夢は広がるばかりだった。



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