悠貴の気持ちは、兄と言い合いになった時とは違う種類の緊張に乱れていた。西原美玖を通してメールアドレスを教えたフルーティストが、悠貴がパリで世話になった担当教官から学んだ人だとわかったからだ。つまりその人は、悠貴の姉弟子ということになる。
その神戸市在住のフルーティスト、
白川は、室田知永子の通夜での演奏を、随分と褒めてくれた。
『真柴さんとの息がぴったりで、室田先生を偲ぶに相応しい、気品のあるラフマニノフでした。低音でのテンポの遅い3連符を均一な響きで鳴らしてらした点が、特に印象に残りました』
にやにやしながらメールを読んでいた悠貴だが、続きに目を走らせ、うなじがざわざわしたのを感じた。
『私の師もああいった音形が素晴らしく得意な人で、昨年大城さんの名前を師の口から聞いたことを、思い出したのです。それで西原さんに頼み、大城さんだと確かめさせていただきました』
白川と悠貴の師匠、ジャンヌ・デュピュイは熱心で真摯な教師だった。悠貴もパリに着いた当初は、日本で教えてもらったことのない身体の使い方や音楽へのアプローチを、わくわくしながら学んだ。
しかし悠貴が不幸だったのは、その頃デュピュイがオーケストラでの仕事と、実母の看護で忙しく、授業が代理の教師に委ねられたことだ。代講の男性教員はアジア人への差別心を隠しもせず、悠貴のレッスンの時間はいつも不機嫌だった。基礎がなっていない、だいたい日本人の唇はフルートに向いていないなどと叱責され、1回のレッスンで4小節も吹かせてもらえないこともあった。心が折れるなんて生易しい言葉では表せない、人生最悪の苦痛を味わった。
言葉に自信が無くて、学校に訴えることができなかった。他専攻の真柴には相談しづらく、悠貴は孤独に悶々とし始めた。デュピュイが出講していない日は実技のレッスンに行かなくなり、出席日数が足りないと事務方から通達され、もう駄目だと思った。
師にも何も言わずに日本に帰ったので、彼女が自分に関するいい話を白川にするとは思えない。いや、存在感の無い教え子だっただろうから、人違いではないのか。
一気に押し寄せた苦い思い出に、息が詰まりそうだった。白川は、デュピュイが9月に来日した際、コンサートの後にセミプライベートでマスタークラスのレッスンをおこなうとも書いてきて、聴講に参加しないかと誘ってきた。悠貴は、曖昧な返信をするのが精一杯だった。
『いろいろとありがとうございます。デュピュイ先生のコンサートには、是非行きたいと思います』
7月の最後の日、東京に戻る真柴を見送るため、悠貴は仕事を早く上がってJR新大阪駅に向かった。
一番暑い時間の新大阪駅は、観光客でごった返して蒸していた。真柴は、新幹線の改札の近くにあるチェーンカフェで悠貴を待っていてくれたが、涼やかにコーヒーを飲む真柴の姿が恨めしくなるくらいだ。
悠貴は額や首の汗をハンカチで拭きながら、真柴に愚痴った。
「暑いわ、意味わからん」
「何か見送りに来させて悪かったなぁ」
「いや、それはええけど」
アイスコーヒーを買った悠貴は、真柴の向かいに座り、鞄からレモン色の封筒を出した。
「小3女子からのファンレターや」
悠貴が真柴を見送ると聞いて、有紗が一昨日の夜に急遽書いた手紙だった。笑顔になった真柴は、恭しく封筒を受け取る。
「必ずお返事させていただきます……家のごたごたは収まったんか?」
まあな、と悠貴は答えた。
「家族とのことって何か定期的に勃発するやん? 久しぶりにデカいの来たって感じかな」
「そやなぁ、でも大城が何かすっきりした顔してるしよかった」
真柴に言われたものの、悠貴は別件でもやもやしている。が、それを今話す気は無かった。
「兄貴と有紗はちゃんと話し合ったみたいやし、俺も義姉さんから兄貴の気持ちちょっと教えてもろたし」
家族が仲良くて何より、と言う真柴は少しおやじくさい。彼は思い出したように続ける。
「西原さんと梅田でばったり
どきっとした。それにしても真柴は、結構西原と
「あ、うん……そうなんやけど」
「何や、何でも言えや……俺はパリにいた時大城の力になれんかったし、今出来る限りのことはするで」
悠貴はそれを聞いて驚いた。最近真柴が、何でも話せとやたら言ってくれるのは、6年前のことを気にしていたからなのだ。嬉しいような申し訳ないような、妙な気分になる。
「いや、あの時のことはええんやで、俺が勝手に病んだだけやから」
「そうやとしても、俺はずっと気になっとったんや」
真柴はコーヒーカップに視線を落とした。
何やこいつ、もしかしていい奴? 悠貴は思ったが、よく考えると再会以降の真柴はいつもいい奴だった。話さないと決めていたのに、気持ちが揺れた。
「……そのフルーティスト、白川さんていうんやけど、俺のフランスの先生の姉弟子や」
悠貴のもたつく説明に、真柴はじっと耳を傾けていた。彼の反応は明快だった。
「その先生が白川さんに話したんは大城で間違いないと俺は思うし、9月に先生に会えばええと思う」
あっさりとした口調は、もやる悠貴を拍子抜けさせた。真柴は続ける。
「とりあえず行っとこうや……何も怖がることないやん? 西原さんなんか、この1年間ほとんど歌ってなかった上に結婚式で人脈ぶち壊さはったけど、めげんといろいろ動く予定立てたはるで」
俺はあの人ほど強ない、と口にしかけて悠貴は言葉を止めた。ふと、自分が今本当にしたいことは何だと考える。
今更、フルーティストとして大活躍したいとは思っていない。でも、フルーティストではありたい。本当に、かつて不義理を働いてしまった師に謝ることができたなら、蜘蛛の巣にまとわりつかれているような今の状態から、少し抜け出せるかもしれない。
贅沢で分不相応な望みだろうか。そんなことはないと思う。
兄も有紗も自分や家族としっかり向き合おうとしている。西原は、新しい舞台を探し始めたという。自分も、同じようにできるはずだ。
「……ありがと、何か前向きに考えてみる気になった」
悠貴は真柴と目を合わさずに言い、アイスコーヒーをストローで吸った。この1か月間、悠貴の身に起きたあれこれは、他人に気を遣うことがあまり得意でないはずの、真柴の計らいの結果だったのだ。それを今まで察することができなかった自分が恥ずかしい。
有紗のしぼんだヨーヨーから出てきた、星型のガラスビーズを思い出した。水風船の中に隠れていたあれは、広輝が気づかなければあのまま捨てられていただろう。
喜びや幸せとは、そういうものなのかもしれない。ふとしたきっかけで気づくことができればいいほうだ。気づかないまま、手放してしまうことも多いに違いない。
真柴はコーヒーカップをそっとソーサーに置いた。
「次関西に戻ってくんのはたぶん12月やけど、まあまた遊んで」
「……うん、実家の近くの教会でクリスマス祝うんやな」
悠貴が訊くと、真柴の顔がぱっと明るくなった。
「ああ、老人ホームのクリスマスコンサート、手伝ってくれへんか? こないだスプリングホールの楽屋口に来てはった人ら、実行委員やねん」
あの時のお年寄りか。悠貴は思わず、ああ、と言った。入居者と一緒に演奏するイベントを真柴がずっと続けていると知り、めっちゃいい奴やん、と思う。
「わかった、忘れんように今書いとく」
悠貴はじわっと嬉しくなりながら、鞄から手帳を出した。9月と12月に予定が書かれたスケジュール表は、悠貴をハッピーにしてくれそうだった。
〈おわり〉