牢獄の冷たさは骨の髄まで染み渡り、肌の隅々まで容赦なく忍び寄る。
杏子が床に激しく叩きつけられた瞬間、薄い囚人服越しに湿った冷気が一気に身体を包み込んだ。
太い腕がまるで鉄の輪のように肩と背中を押さえつけ、彼女を冷たく硬いコンクリートの床に釘付けにする。
さらにいくつもの影が寄ってきて、絶望の闇が杏子を完全に覆い尽くすーーー。
拳や足が、悪意を隠すことなく雨のように彼女の身体を打ち据えた。
鈍い衝撃音が狭い牢屋に鳴り響き、その一撃ごとに骨の奥まで痛みが走り、皮膚が引き裂かれるような熱さが全身を焼く。
杏子は本能的に体を丸め、死にかけのエビのように腕で頭と顔を必死に守るが、四方八方からの暴力には抗いきれない。
鋭い靴先が肋骨に食い込み、思わずうめき声を漏らす。喉の奥に鉄錆のような味が広がった。
痛みが全身を駆け巡り、意識は波に呑まれる小舟のように揺れ動く。
杏子は目をきつく閉じ、生理的な涙で濡れたまつ毛が青白い頬に張り付いた。
体に走る痛みが、まるで嘲笑うかのように響いている――
彼女はまだ、知弘が自分に対して一線を守っている、妻としての最低限の誇りを残してくれていると信じていたのだ…!
だが、彼の目には自分はもう人間としてすら見られていない。
ただ、汚れた泥沼の中で好きなように踏みつけられる存在にすぎないなのだ。
ぼんやりとした意識の中で、ひとつの名が、血に濡れた唇から弱々しく、けれども頑なに漏れた。
「……知弘……知弘……」
その声は掠れて形を成さないが、骨の髄まで染みついた習慣が滲んでいる。
彼女は彼を愛していた。
あどけない少女時代から、すべてを失った今までの十年間ーーーーー。
青春のすべて、情熱のすべてを、この男に燃やし尽くしてきた。
けれど、その炎は彼女自身を焼き尽くすことになった。
彼は自らの手で彼女の心をズタズタに切り裂き、今はその身体さえもこの暗闇の檻で潰そうとしている。
――三日後。
郊外の霊園。
空は鉛色に重く垂れ込め、雨上がりの土と草の湿った匂い、そして消えない死の静けさが空気に満ちていた。
知弘は漆黒のスーツに身を包み、新しい墓石の前に立っている。
その姿は抜き身の刃のように凛としつつも、どこか底知れぬ冷たさに満ちていた。
彼は自らの手で、小さな棺の箱ーー仁香の遺骨が納められた箱を冷たい墓穴の奥深くへとそっと置いた。
土が幾重にも積み重なり、すべての愛と希望を覆い隠していく。
墓石が立ち、そこには仁香の写真が飾られている。花のような笑顔が、永遠にその若さのまま刻まれていた。
知弘は写真を見つめ、その瞳には永遠に解けない悲しみが渦巻いている。それはまるで千年の氷のように冷たく固まっていた。
「仁香……」
低く落ち着いた声が静かな霊園に響き、ほとんど執念に近い誓いが込められていた。
「お前を傷つけた奴は、一人残らず報いを受ける。」
そこへ、真っ白な手がそっと彼の腕に触れた。
振り向くと、墓石の写真と見紛うほど似た顔があった―ーーー坂倉愛理である。
彼女は黒いワンピースに身を包み、目元は赤く、控えめに悲しみを表していた。
「幸田さん……ご愁傷様です。」
愛理の声はかすかに震えながらも優しく、「お姉ちゃんがいなくなって、みんな辛いです……」と悲しく語る。
彼女は身体をそっと寄せ、知弘の胸に身を預けようとした。
知弘の腕はわずかに強張り、何気ないふりを装いながらもそっと彼女との距離をとる。
彼は愛理をじっと見つめ、その目は鋭く、冷静だった。
――ーーー似ている。
だが、この顔の下に宿る魂は、決して仁香ではない。
どれだけ外見が似ていようと、心は違う。
「犯人には必ず報いを!」
愛理は避けられると、悔しさの色を一瞬浮かべ、すぐにそれを怒りに変えた。声は少し高くなり、どこか煽るような響きを帯びていた。
知弘は彼女の言葉に答えず、視線を数歩離れた場所で控えている秘書・小林健一に向け、冷たく鋭い声で命じた。
「杏子は、罪を認めたのか?」
「社長、奥様は収監後、高熱で意識不明のまま、取り調べもまだできておりません。」
「ここに連れて来い。」
知弘の命令は短く、容赦がない。視線はまた墓碑に戻る。「今すぐだ。」
「はい、かしこまりました。。」
小林は驚きを隠しきれない表情で頭を下げ、その場を足早に去っていった。
愛理はすかさず一歩近づき、声を低くして急かすように囁く。
「幸田さん、もう証拠は十分でしょう? さっさと裁きを下して、静かに片付ければいいじゃないですか。余計な問題が起きる前に……」
彼女の目は何か「事故」を暗示するように光った。
知弘はその一瞬で彼女に鋭い視線を向ける。その冷たさはまるで刃のように、愛理の作り笑顔や計算を突き刺した。
その眼差しに込められた警告と嫌悪に、愛理は身震いし、言葉が喉で凍りつく。
「幸田さん、私……」
思わず一歩後退し、顔色を失いながら慌てて口を開く。
「私は……ただ、お姉ちゃんがかわいそうで、悔しくて……!」
「君は仁香に本当によく似ている。」
知弘は感情を見せることなくそう言い、視線はすぐに墓碑に戻った。
その顔立ちだから、彼女は今ここにいる。
もしその特徴がなければ、とっくに追い出されていただろう。
そして何より、杏子――
彼女の運命を決めるのは、他でもない幸田知弘自身だ。誰にも、ましてこの顔をした女に口出しさせることはない。
――一時間後。
霊園の静寂を重い足音が破った。
杏子は二人の男に連れられ、ふらつきながら墓地へ向かう道の端に現れた。
高熱が下がらず、頬には異常な赤みが差し、唇は乾き色を失い、全身に力が入らない。
一歩ごとに足元がふわふわと頼りなく、足取りが不安定だった。
冷たい手錠が細い手首に食い込み、皮膚が裂けて血がにじんでいた。
だぶだぶの灰色の囚人服が、彼女の身体をますます薄く見せ、今にも倒れそうに見えた。
知弘は仁香の墓碑の前で、まるで石像のように硬直して立っていた。
杏子に一瞥もくれず、彼女が数歩先で無理に立ち止まるまで、動こうとしなかった。
突然、彼は手を伸ばし、手錠をかけられた杏子の手首を力いっぱい掴んだ。
骨が砕けそうなほどの強い力で。