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第4話 お前に母親はもういない 1

「お姉ちゃんも、これでやっと安らかに眠れるわね!」


愛理がそう叫ぶや否や、勢いよく杏子の膝裏を蹴りつける。そして杏子の髪を掴み、無理やり墓石に額を打ちつけた。石の角で額が切れ、血が頬を伝い、墓前の白菊に滴り落ちた。


知弘は木陰に立ち、革靴で枯葉を踏みつぶす。愛理の泣きながらの罵声と、杏子の骨が墓石にぶつかる鈍い音が重なる。


「お姉ちゃんのお腹には赤ちゃんもいたのよ!二人の命を奪ったんだから、あんたなんか、生きてる価値もない——!」


突然、愛理が悲鳴を上げ、腕を振り払う。杏子は必死に愛理の手首に噛みつき、血が歯の隙間からにじみ出る。


「知弘さん!助けて!」

愛理は知弘の背後に逃げるようにして、涙混じりの声で訴えた。


知弘は血で染まった杏子の唇をじっと見つめる。その顔に、仁香があの夜、ベランダの手すりにしがみついて助けを求めていた姿が重なる。


彼は杏子の顎を掴み上げ、震える喉元を指先で強く押さえつけた。

「愛理の方が、まだかわいそうだよ。」


「私は、あなたの妻なのに!」

杏子の声は喉を締めつけられてかすれ、口元から血が滴り落ちる。

「本当は……知弘、あなたは人を間違えてる。あの火事の時、あなたを背負って外に連れ出したのは私。仁香じゃない。」


知弘は冷たく笑い、ハンカチで手を拭いながら言った。

「仁香は自分で言ってた。『私があなたをあの火事から救い出した』って。」


杏子はそのまま話し続けた。

「私はあなたを背負って湖のほとりまで運んで、大人を呼びに行こうとした。でも戻った時にはもうあなたはいなかった。後で知ったの、仁香が通りかかって、あなたを家に連れて行って助けたって。」


「もういい。」

知弘は血のついたハンカチを杏子の顔に投げつけた。

「彼女が亡くなって間もないのに、その恩まで自分のものにしようとするのか。」


杏子は目を閉じ、涙が血と混ざって頬を伝う。

「いっそ、殺してちょうだい。」


「殺すなんて、甘すぎる。」

知弘は杏子の手錠を引き上げ、霊園に鉄の鎖が軋む音が響く。

「これからは生きて、仁香が味わった苦しみを全部受けてもらう。」


杏子はふいに笑った。血の混じった息で、どこか儚い声を響かせる。

「あの火事の中で、『大人になったら結婚しよう』って言ったよね。骨髄を提供した時も、『一生、私だけを選ぶ』って……知弘、もし来世があるなら、私は絶対に——…」


言い終える前に、杏子の体がふらりと揺れ、額から流れた血が知弘の革靴に落ちた。


幸田家の別邸には、冷たい光を放つクリスタルのシャンデリアが揺れている。


知弘がネクタイを外しながらリビングに入ると、部屋の隅で小さな影が縮こまっていた。

直樹は毛の抜けたパンダのぬいぐるみを抱きしめ、ゆっくりと知弘の足元に近づき、クレヨンで描いた紙を差し出した。


そこには、三人が手をつないでいる絵と、「ママとおとうさん、だいすき」と不器用な文字。


「くだらない。」

知弘はその絵を無造作に破り捨て、紙吹雪が直樹の足元に散った。

「今日から、お前に母親はもういない。」


直樹は大きな目を開き、ちり紙の影を映している。

自閉スペクトラム症を持つ彼は普段ほとんど言葉を発しないが、杏子が三年かけて「ママ」と呼べるように教えた。


今、彼はぬいぐるみを強く握りしめ、指が真っ白になるほど力を込めていた。


「ろくに話すこともできないくせに……」知弘は足元のちり紙を蹴飛ばす。「もしかして、お前は本当に俺の子じゃないのかもな。」


直樹はふらつきながら二歩後ずさり、ソファのひじ掛けにぶつかった。

まだ四歳の彼の世界には、母親のやさしい声と、時折見せる知弘の冷たい表情しかなかった。


「母親はいない」という言葉が重くのしかかった瞬間、直樹はカーペットにひざまずき、汚れた小さな手で知弘のズボンの裾をぎゅっと掴んだ。ずっと言えずにいた言葉が、泣き声になってこぼれ落ちる。


「……ママが、ほしい。」


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