もし杏子がこの場にいたら、きっと喜びのあまり涙を流していただろう。
彼女の子どもは純粋な心を失ってはいなかった。ただ、長い間親情から見放されていただけだった。
だからこそ、杏子は諦めずにもがき続けてきた。
だが、知弘の怒りは火のごとく、一瞬で全ての温もりを焼き尽くした。
ローテーブルが彼の一蹴りで激しくひっくり返り、ガラスの割れる音が部屋に響き渡る。
「言っただろ、お前には母親なんていないんだ!」
直樹の顔から一気に血の気が引き、痩せた体が激しく震え始める。唇はみるみる紫色に変わり、呼吸が止まりそうになる。
「坊ちゃん!」執事が恐怖に満ちた声で叫ぶ。
……
法廷には重苦しい空気が漂っていた。
杏子は囚人服に身を包み、二人の刑務官に見張られながら、ゆっくりと法廷に姿を現した。
被告席に立つ杏子は、目を伏せたままだ。
原告席には、知弘が冷ややかで近寄りがたい雰囲気をまといながら座っている。
彼の前には分厚い資料が積み上げられていたが、その視線は決して被告席に向けられることはなかった。まるで、そこには何も存在しないかのように。
「杏子!」静寂を破る力強い声が響いた。
江藤修一が足早に近づいてくる。彼は杏子の弁護士であり、大学時代の友人でもあった。
彼は法律、杏子は建築を学び、新入生の親睦会で出会った。二人の絆は深い。
「信じてくれ。必ず無実を証明する。君が人を殺すはずがない!」
杏子は苦しげに微笑み、かすれた声で答えた。「修一、ありがとう。でも……私は弁護はいらない。」
「なぜだ!自分を諦めちゃいけない!」修一は必死に声を抑えて叫んだ。
「そうしないと、知弘の怒りは収まらないから。」
「じゃあ直樹は?彼はまだ四歳だ。母親がいなくて、どうやって生きていくんだ?」修一の声には悲しみが滲んでいた。
「直樹にはおじいさんもおばあさんもいる。彼は幸田家の子だ。知弘が私をどれだけ憎んでも、直樹には当たらないはず。」杏子の声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「違う!彼に必要なのは君だ、母親なんだ!」修一は杏子をじっと見つめ、残酷な事実を突きつける。「直樹は今、ICUにいる。重度の心臓病と診断された。幸田家は……彼を見捨てるつもりだ!」
その一言は、杏子のすでに傷ついた心に刃物のように突き刺さった。
彼女は全身を震わせ、信じられないというように顔を上げる。
「彼には君しかいない。だから、絶対に罪を認めてはいけない!」
「心臓病……どうして?私が離れて、まだそんなに経っていないのに……彼はまだ四歳なのに……」
杏子は胸を締め付けられるような苦しみに襲われ、息もできないほどだった。
「大きなショックを受けて、心臓が耐えきれなかったらしい。」
修一は強い決意を込めて杏子を見つめる。「だから、直樹のためにも、生きてここから出るんだ。絶対に諦めるな!」
その言葉に、杏子の目にもう一度生きる力が宿った。今度は何もかも捨てる覚悟で!
杏子は突然、刑務官の手を振りほどき、子を守る母親のように原告席の知弘に向かって突進した。
「知弘!直樹を助けて!彼はあなたの子よ!あなたの血を引いているのよ!どうして見捨てられるの……」
どこからそんな力が湧いてきたのか、自分でも分からない。二人の刑務官に引き止められながらも、杏子は知弘のもとにたどり着いた。
「お願い、直樹だけは……彼は私が命をかけて産んだ子なの!」
知弘は冷たい視線を杏子に向け、口元に残酷な笑みを浮かべる。「本当に、直樹が俺の子だと確信してるのか?江藤修一の子じゃないのか?」
杏子は雷に打たれたように言葉を失う。「あなた、どうして直樹を疑うの……」
「修一は君に深い思いを寄せているようだ。君が死刑になるかもしれないのに、必死に弁護してる。その気持ち、感動的だよな。君たち、本当に何もなかったのか?」
「私たちは何もない!」
「ふん。」知弘は鼻で笑い、「杏子、たとえ直樹が俺の子だとしても、あんなのは役立たずだ。自閉スペクトラム症で心臓病なんて、幸田家の恥だ。お前の腹から生まれたものは、ろくなものじゃない!」
一言一言が杏子の心を容赦なく切り裂いた。
彼の憎しみは、我が子にまで及んでいた。
絶望が杏子を冷たい波のように飲み込む。「もし直樹をいらないなら……私に返して……」
「欲しいのか?」知弘は眉をひそめ、氷のような目で見下ろす。
「返してください!」杏子はきっぱりと言い切った。
「いいだろう。」知弘の目が鋭く光る。「離婚してくれ。子どもはお前にやる。」
杏子の目に、涙があふれた。十年かけて尽くしてきたのに、最後に残ったのは冷たい離婚とは…。
彼女の全ての犠牲は、彼にとって何の価値もなかった。
「分かった。」杏子は知弘の冷たい視線をまっすぐ見返し、はっきりと言った。「知弘、この結婚、私は終わらせる。」
知弘は素早く書類を叩きつけた。「署名しろ!印を押せ!」
杏子はすぐには動かず、じっと彼を見上げて言った。「無罪放免にしてくれ。」その声は落ち着いて、しかし強い意志に満ちていた。
「そうでなければ離婚には応じない。あなたにもどうすることもできないはず。」
実は、知弘と杏子が結婚した時、誰にも言わずに一つの契約を交わしていた——
知弘は絶対に杏子と離婚できない、というものだった。