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第6話 あなたみたいな愛人上がりの女より、ずっとましだ。

冷たい金属の手錠が杏子の手首で鈍い音を立て、その音はまるでこの滑稽な結婚に下された最後の判決のようだった。


知弘の手が突然伸びてきて、彼女の顎を強く掴む。その力は骨がきしむほどだ。


その瞳の奥には凶暴な怒りが渦巻き、搾り出すような声で言った。「杏子、お前もなかなかやるじゃないか!」


空気が張り詰め、息苦しささえ感じる。


杏子は精一杯首を上げ、今にも彼女を食い殺しそうな彼の視線を真っ向から受け止め、少しも引かなかった。


彼女はゆっくりと手錠に繋がれた手を持ち上げ、その冷たさが血の巡りとともに心臓の奥まで染み込んでいく。


彼女の声は静かだったが、まるで鋭い刃のように突き刺さった。「私があなたほど残酷だったことある?」


一拍置いて、はっきりとした言葉を空気に刻みつける。「離婚でいい。これで終わり。もうあなたを愛することはない。」


その手錠は、彼の支配から抜け出すための通行証であり、過去を断ち切る唯一の証明となった。


_____


数日後、病院の集中治療室特有の強い消毒薬の匂いが鼻を突く。冷たく、刺すような臭いだ。


杏子はほとんど駆けるようにやって来た。胸が激しく上下し、厚いガラス扉の向こうに小さな影が見えた。


直樹。愛する直樹。


心臓が見えない手で締め付けられるようで、息ができなかった。


ほんの少し会わなかっただけなのに、その小さな体には針が何本も繋がれ、冷たい機械に囲まれて静かに横たわっている。今にも消えそうな、儚い命だった。


杏子は近くを通りかかった医師の袖を掴み、震える声で懇願した。「先生!お願いです、中に入れてください!私は母親なんです、どうか…!」


医師は立ち止まり、杏子を一瞥した。その視線には職業的な冷静さと、隠そうともしない非難が混じっている。


着替える暇もなく、囚人服のままの彼女に目を止めると、表情はさらに鋭くなった。


「あなたが幸田直樹くんのお母さん?こんな無責任な親、今まで見たことがありませんよ!子どもがこんなに重病なのに、放ったらかしとは!」


そのひと言ひと言が、鞭のように杏子の心を打つ。


彼女はうつむき、指先が掌に食い込むほど強く握りしめ、激しい痛みを感じながらも、ただ何度も繰り返すしかなかった。「ごめんなさい…本当にごめんなさい…もう絶対に離れません…」


直樹はこの世で唯一、彼女に残された温もりであり、生きる理由そのものだった。


もう二度と、彼を失うわけにはいかない。


医師は無表情のまま、薄い紙を差し出した。その軽さが今は鉛のように重い。


「まず、今までの医療費を支払ってください。八十万円です。手術費用は、さらに二百万円ほど必要です。」


二千万円——!


杏子の目の前が暗くなり、足元が崩れそうになる。


必死で立ち直り、焼けつくような請求書を受け取ると、すぐに支払い窓口へ向かった。


窓口には列が並んでいる。杏子は一秒ごとに焦りが募る。


やっと順番が来ると、汗で湿ったカードを差し出し、声を振り絞った。「支払いをお願いします、幸田直樹です。」


担当はキーボードを叩きながら、無表情に画面を見つめる。


「カードが凍結されています。残高も足りません。それに、入院してから一度も家族が支払いに来ていません。ずっと未納です。」


凍結?残高不足?一度も払っていない?


杏子の頭が真っ白になる。


知弘…!直樹の命さえも、こんな風に冷酷に扱うなんて!


全身に氷のような寒さが広がった。


どうすればいいの?もう、どうしたら——


「私が払います。」


隣から、馴染みのある落ち着いた声が聞こえた。


肩越しに銀行カードが差し出され、窓口に渡された。


杏子はとっさに振り向き、修一の心配そうな瞳とぶつかった。


彼は急いで来たのだろう、額には汗が滲んでいる。


杏子は胸が締め付けられ、思わず修一の手を押さえた。


「ダメ!」彼女は切羽詰まった声で言う。「修一、もう十分助けてもらった。これ以上、あなたを巻き込みたくない!」


もし知弘が修一が支払ったことを知ったら、どんな仕打ちをするか想像もつかない。


彼の事務所は始めたばかり。彼の未来を、私が壊すわけにはいかない。


「杏子…」修一が何か言いかける。


杏子は素早く身を引き、決然と背を向けて、まるで逃げるように病院を飛び出した。


午後の日差しが目を刺すほど痛い。


幸田家が直樹を見捨てるのなら…高橋家は?


高橋明。彼女の実の父親。直樹には高橋家の血も流れている。


わずかな希望を胸に、杏子は高橋家の豪邸へと駆け込んだ。


呼び鈴も鳴らさず、重い扉を押し開ける。


リビングには甘ったるいスープの香りが漂っていた。


高橋明は高級なソファに座り新聞を読み、継母の理恵は優雅にカップを手にコーヒーを飲んでいる。


杏子は他を省みず、父親の前に駆け寄る。息が荒く、声も震えている。「お父さん!直樹が心臓病で、すぐに手術を受ける必要がなの。二千万円…お願い、助けて。あの子はあなたの孫なのよ!」


高橋明はゆっくりと新聞を置き、無表情で杏子を見上げる。その目には祖父の優しさはなく、冷徹な商人の計算だけ。


「金だって?」彼は鼻で笑い、耳障りな声を上げる。「幸田家の嫁だった間、高橋家に何か得があったか?今さら追い出されて、親に泣きつくのか?」


「お父さん!これは直樹の命なのよ!」杏子は絶望の淵に沈みかけていた。


「命?あの子は知弘の息子だろ?幸田家が見捨てる子どもを、なぜうちが助けなきゃいけない?高橋家の金は勝手に湧いて出るとでも?」


その冷たさと打算は、外の寒風よりも痛烈だった。


「ふふっ」理恵はカップを置き、手入れの行き届いた指でコーヒーをゆっくり回し、意地悪な笑みを浮かべる。「聞いたわよ、あの子の病気はショックが原因だって?本当にあなたのお腹は役立たずね。生まれてきた子は自閉スペクトラム症で病弱、まるで厄介者じゃない。」


“病弱”“厄介者”という言葉が、杏子の崩れかけた心を鋭く突き刺した。


積もり積もった屈辱、怒り、絶望が一瞬で爆発する。


「黙れ!」杏子は思わず叫び、反射的に動いていた。


怒りに駆られ、理恵の手から高価な有田焼のカップを奪い取る。


誰もが動揺するほど素早い動きだった。


次の瞬間、熱々のコーヒーが理恵の顔に容赦なく浴びせられる!


「きゃあーっ!!」


理恵は悲鳴を上げ、熱いコーヒーが顔や首筋、髪、パジャマに滴り落ちていく。みじめな姿だった。


彼女は顔を押さえ、金切り声を上げる。


「杏子!お前は何てことを!」高橋明は怒りに震え、杏子を指差した。


杏子はその声にも動じず、空になったカップを握りしめ、激しく息をつきながら継母を見据える。その目には憎しみと軽蔑が燃えていた。


明瞭で強い声が、静まり返ったリビングに響く。


「私の子どもは、あなたみたいに卑怯な手段で家に入り込んだ女より、千倍、いや万倍もましよ!」


「な、何ですって…!」継母は怒りと痛みで声を裏返し、杏子を指差して叫ぶ。「明さん!見てよ、こんな親不孝な娘を!早く何とかしなさい!」


「杏子!」父親は顔を真っ赤にして手を振り上げた。


杏子は空のカップを床に叩きつけた。


「ガシャーン!」


乾いた音が、継母の悲鳴も明の怒号もかき消した。


鋭い破片が四方に飛び散る。


「もう、こんな家に一秒もいたくない!」


彼女は背筋を伸ばし、爪が掌に食い込む痛みで自分を保つ。


目の前の“家族”を冷たく見渡し、絶望と断絶の覚悟を込めた声で言った。


「いいわ。自分の孫が死ぬのを見て見ぬふりをするなら——」


深く息を吸い、血の味さえする空気を吐き出し、きっぱりと言い放つ。「もう二度と、高橋家とは関わらない。」


「出ていけ!二度と帰ってくるな!」継母は顔を覆い、怒りで声を歪めて叫ぶ。「絶対に戻るな!」


杏子は冷ややかな、残酷なほどの微笑みで応じる。


「いいわ。覚えておきなさい。他人を踏み台にしてのし上がった人間は、必ずいつかひどい目に遭う。私はその日を楽しみにしてる。」


そう言い残し、杏子は一度も振り返らず、床に散らばる破片とスープを踏みしめて、金ぴかで中身の腐ったこの家を出ていった。


扉が背後で激しく閉まり、怒鳴り声も悲鳴もすべて遮断される。


秋の冷たい風が頬を打っても、杏子は何も感じなかった。


行き交う人の流れに紛れ、ただ歩き続ける。


父の浮気、母の失踪、冷たい雨の夜に一人残されて以来、彼女はずっと愛のない荒野で生きてきた。


直樹だけは、絶対に同じ思いをさせないと誓ってきたのに——


結局、ここまで来てしまった。


もう、どこにも道はない。


本当に、直樹をこのまま…


いや、絶対に諦めない!


杏子は長い間しまいこんでいた名刺を取り出し、そこに書かれた番号に電話をかけた。


今やこの小さな黒いカードだけが、彼女が絶望の淵でつかめる唯一の救いだった。


彼女の声は乾いて低く、感情のない調子で告げた。


「お金が必要です。」


「今夜十時。ナイトクラブで会いましょう。」


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