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第7話 酒は売るけど、体は売らない

ネオンが鮮やかに輝くナイトクラブの看板が、東京のもっとも賑やかな交差点を紫がかった赤で染め上げ、まるで欲望が凝縮されているかのようだった。


扉の向こうは、外の世界とはまるで別世界。中に入れば、耳をつんざくビート、鼻を突く煙草と香水、そしてアルコールが混じり合った独特の空気。


ここではお金が幻のように立ち込め、男も女も、光と影が交錯する迷路の中で一時の刺激を求めてさまよっている。


杏子はバックヤードの細い通路に立っていた。空気はどこか淀んでいる。


店のママ・ミドリは、剥げかけた壁にもたれ、指先で細い煙草を挟んでいる。その煙がゆらゆらと立ち上り、杏子を値踏みする視線を少し曇らせていた。


「幸田杏子?」ミドリは煙を吐き出しながら、いつものしゃがれた声で呼びかける。


「はい。」杏子の声は小さいが、騒がしいバックミュージックの中で妙に際立っていた。


「考えはまとまったの?」ミドリの視線はフックのように、杏子の痩せてはいるがスタイルのいい体をじっくりとなぞっていく。


「ええ。」杏子はそれだけ答え、すり減ったカーペットの模様に目を落とした。「お金が必要なんです。」


ミドリは短く笑い、指の間から灰がパラパラと落ちる。


「初めて会ったときから思ってたのよ。あんたのその顔とスタイル、男に金を出させる才能があるわ。美人でありながら、その魂に芯があって、金持ちはこういうタイプが好きなのよ。」彼女は少し身を寄せて、声をひそめる。「プライドを捨てる覚悟があるなら、金はどんどん入ってくる。」


杏子は勢いよく顔を上げ、ミドリの誘惑に満ちた目をまっすぐ見つめた。微塵の揺らぎもなく、「私はお酒を売るだけです、ミドリさん。」その言葉はきっぱりとしていて、一言一言が鉄板を叩くような強さだった。「体は売りません。」


ミドリの表情から笑みが薄れ、どこか皮肉と軽い侮蔑が混じる。肩をすくめて、「別に無理はしないわ。ここはどんな子だって、すぐに染まってしまう場所。お金の力を思い知ったとき、考えも変わるでしょうけどね。」と、隣にかけられた安っぽいスパンコールのドレスを指さした。


「ほら、これに着替えて。」


その「仕事着」と呼ばれるものは、黒い薄布が申し訳程度に繋がったキャミソールで、腰もほとんど隠れず、胸元も危ういほど深い。


杏子がその冷たくて安っぽい生地に指を触れた瞬間、病院の集中治療室の分厚いガラス扉、直樹の体を覆う無数のチューブ、心電図の冷たい音が一気に蘇る。


心臓が鉄の爪で締め付けられ、呼吸も苦しくなる。一度目を閉じ、再び開けた時、瞳にはほとんど無感情な静けさだけが残っていた。そして屈辱的なドレスに素早く着替えた。


重い酒箱を肩に背負い、杏子は賑やかな個室のドアを押し開けた。


押し寄せる音楽と煙、酒の匂い。ライトの下で、酒と欲望にまみれた顔が歪みながら踊っている。


杏子は背筋を伸ばし、まるで汚れた沼に無理やり植えられた花のように、場違いなまま中へ入った。


「失礼します。」激しい音楽の中でも、彼女の声は礼儀正しさを保っていた。


ソファ脇のテーブルに歩み寄り、丁寧に赤ワインのボトルを置く。冷たい瓶から水滴がこぼれ落ちる。


「シャトー・マルゴー、開けたてです。いかがなさいますか?」


すぐに何人かの男たちのいやらしい視線が、杏子の肩や腕、引き締まったウエストに絡みつく。


「おっ、このクラブに新しい子が入ったんだ?」ハゲ頭の男が歯を光らせてニヤリと笑う。


隣の派手なシャツの太った男が目を細め、杏子の顔を舐めるように眺めた。「へぇ、ずいぶんとあどけない顔だな。俺の大学時代の初恋にそっくりだ。もしかして、学生さんか?」


「ミドリさんもやるなぁ。」と、ガリガリの男が手をこすりながら杏子の体を見上から下まで舐め回す。「どこからこんな美人を連れてきたんだ?スタイルも完璧だ。」


下品な会話が次々と浴びせられる。


杏子は手を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、こみ上げる嫌悪感を必死に押さえた。


無表情のまま、空気のようにその罵声をやり過ごし、もう一度はっきりと尋ねる。「こちらのマルゴー、いかがなさいますか?」


そのとき、「山本社長」と呼ばれるガリガリの男が、ゆっくりグラスを置き、光る小さな目を杏子に向ける。まるで品定めするような目つきだ。


「もらおうか。」わざとらしく言いながら、酒箱を指差す。「その箱の中、全部いただくよ。」


杏子の頭に一気に歓喜が駆け巡る。このワイン1箱分の歩合があれば、直樹のICU費用が何日分も支払える。心臓の鼓動が聞こえるほどだった。


だが、山本社長の次の言葉が、杏子を突き刺した。


「ただし……」身を乗り出し、分厚い黄金の指輪をはめた手が、突然杏子の手の上に触れる。その冷たくベタついた感触に、全身の毛が逆立つ。


「ここに残って、俺と一緒に飲んでもらおうか。」濁った目がいやらしい光を放ち、もう片方の手でウイスキーのグラスを杏子の前に差し出す。


「俺だけじゃない。ここにいる全員の相手をして、一杯ずつこのワインで乾杯してもらおう。」


杏子は、蛇に噛まれたように手を引き、体を強張らせた。声は震えていたが、意志は揺るがない。


「申し訳ありません。私はお酒を売るだけです。接待は仕事に含まれていません。」


迷いなく背を向け、今すぐこの空間から逃げ出したい一心だった。


「おい、いい気になるなよ!」


山本社長の声が怒りで急に高くなる。


テーブルにグラスを強く置く音は音楽にかき消されたが、他の男たちは合図のように立ち上がり、あっという間に杏子の前に立ちはだかった。大きな体が壁のように杏子を囲み、息も詰まるほどだった。


山本社長はゆっくりと杏子の前に歩み寄り、嫌らしい笑みを浮かべながら、指輪をした手を再び杏子の肩紐に伸ばした。


「酒は売ってもらうよ。でも、今夜は君もいただく。」ぐっと顔を近づけ、酒臭い息を吹きかけながら、あからさまな威圧と侮蔑を込めて言う。「ここで俺が手を出せない女なんていないんだ。」


「やめて!触らないで!」杏子は必死にその手を突き飛ばし、極限の恐怖と怒りで叫んだ。「助けて――!」


その悲鳴は厚いドアを突き抜け、廊下の静けさを切り裂いた。


ちょうどその時、凛とした男性の姿が廊下を通りかかった。


ダークカラーの仕立ての良いスーツが、広い肩と引き締まったウエストのラインを際立たせている。知弘は、そばにいる秘書の小林健一に小声で何かを指示しながら、ゆっくりと歩いていた。


その短くも聞き覚えのある叫び声が、氷の針のように彼の耳を刺した。


一瞬、足を止め、眉をひそめる。


小林もすぐに異変に気づき、声のした個室に素早く目をやった。


ドアの隙間から漏れる光と人影。その中に、男たちに囲まれている黒いキャミソール姿の細いシルエットが見える。


たとえぼんやりとした横顔と違和感のある服装だけでも、彼の心は大きく揺れた。


「社長……」小林は信じられないという戸惑いと確信を含んだ声で、そっと囁いた。「あそこにいるの……奥様では?」


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