愛理の顔には隠しきれない悪意が浮かんでいた。その毒蛇のような視線に、杏子の心に火がついた。
母親としての本能が、激しい痛みや体のだるさをねじ伏せ、彼女はベッドから転がり落ち、ふらつきながらも立ち上がった。
直樹を守らなきゃ!
その思いが、力が全身を駆け巡る。
杏子はライオンのように、信じられない力を爆発させ、愛理の服の襟を掴むと、勢いよく二度平手打ちした。パシン、という鋭い音が病室に響き渡る。
「直樹に少しでも手を出したら、たとえ鬼になっても絶対に許さない!」
彼女は叫び、目は血走り、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「ふん。」愛理は顔を叩かれて横を向き、頬はヒリヒリと痛んでいるはずなのに、軽蔑に満ちた冷たい笑みを浮かべた。「生きてても私に勝てなかったくせに、死んだら何ができるっていうの?無駄よ。」
「私にだけ向かってきなさい!何もかも全部私にぶつけて!直樹はただの子供よ!無実の子供なの!」
杏子の声は怒りと恐怖で震え、かすれていた。
「無実?」愛理は信じられないというように冷たい目をした。「私が望んでるのは、彼が知弘の心の棘となって、ずっと消えない存在になることよ。あなたなんて、踏み潰すのは簡単だよ。」
「愛理、ふざけるな!」
「これからどうなるか、見てなさい……ふふふふっ!」
愛理の鋭い笑い声が杏子の神経をズタズタにした。
絶望と、全てを賭けてでも子供を守る決意が胸の中でぶつかり合う。
目の前で笑いする愛理の顔を見て、杏子の中の理性の糸がぷつりと切れた。
直樹を守る!その一念が、彼女の体を動かした。冷たい五本の指が、愛理の細い首を締め上げる。
「死ねばいいのよ!あなたさえいなくなれば……直樹は助かる!」
杏子の手には点滴の痕が紫色に残っていたが、今は驚くほどの力を発揮していた。指先は力で真っ白になっている。
愛理は一瞬で目をひっくり返し、喉から「ゴホッゴホッ」と苦しそうな音を立て、手足を必死に振り回してもがいていた。
「狂っ……てる……離して……ごほっ……」愛理の顔は赤黒くなり、必死で杏子の手を引き剥がそうとしたが、びくともしない。
杏子の耳には何も届かない。彼女の目に映るのは、狂気の殺意だけだった。指はさらに強く締まる。
しかし、手術直後で体力が限界に近かった杏子は、その瞬間、力が抜けた。
愛理はその隙をつき、強烈な生への執着で一気に杏子の手から逃れた!
愛理がよろめきながら新鮮な空気を求めて後ずさったその時、杏子の視線はベッドサイドの果物皿の横で光るフルーツナイフに釘付けになった。
一切のためらいもなく、杏子は本能と母の決意に突き動かされて、ナイフを掴み、全身の力を込めて愛理に突き刺した!
「きゃあああああっ!!」
凄惨な悲鳴が病室の静寂を切り裂く。
同時に、病室の扉が勢いよく開き、知弘の体が現れた。
彼の目は一瞬で見開き、愛理の傷口から溢れる血と、ナイフを握ったまま蒼白な顔で睨みつける杏子に釘付けになった。
「愛理!」彼は怒鳴った。
「知弘……助けて……」愛理は糸の切れた人形のように崩れ落ち、苦痛と絶望に顔を歪め、涙を流した。「痛いよ……私、もうだめなの……?」
仁香にそっくりなその顔が、死にそうなほど哀しげに助けを求める姿は、知弘の心に鋭く突き刺さった。
まるで、あの日の仁香の助けを求める声が蘇ったようだった。
「杏子!」知弘は怒りで目を見開き、獣のような勢いで杏子に襲いかかった。圧倒的な力で彼女を床に叩きつける。
杏子はくしゃくしゃに倒れこみ、激しい痛みで体を丸めた。
「知弘……痛いよ……」愛理はそのまま彼の胸に倒れ込み、弱々しく首に腕を回し、苦しげにすすり泣いた。
「どうしてこんなに私を憎むの……お姉ちゃんを殺しただけじゃ足りないの……今度は私まで……」
だが、知弘に見えない角度で、愛理は肩越しに床に倒れた杏子を鋭く見下ろし、口元には薄ら寒い笑みが浮かんでいた。
「知弘……私、本当に……もうだめかも……」愛理の声はかすれ、悲しげに響いた。
「馬鹿なこと言うな!」知弘は怒鳴り、愛理を抱きかかえて立ち上がる。一刻も早く助けたいという焦りが伝わる。
仁香の妹。この顔を、もう二度と失いたくない――
冷たい視線が杏子に向けられる。「杏子、覚悟しておけ!」
この女は、やはり蛇のように冷酷だ。自分が一瞬でも心を揺らがせたことが恥ずかしい。彼女に情けなど無用だと、知弘は思い知った。
杏子は冷たい床の上で、去っていく足音を聞きながら、きつく目を閉じる。熱い涙が静かに流れている。
歯を食いしばり、震える腕で体を支え、腹の激痛に耐えながら、なんとか立ち上がろうとする。
彼女はどうしても集中治療室へ行かなければならない。直樹の無事を確かめるために。
やっとの思いで手術室の前の廊下にたどり着いたそのとき、怖ろしいほどの威圧感をまとった影が、彼女の前に立ちふさがった。
知弘がそこにいた。全身から冷たい怒気を放ち、氷のようなまなざしで杏子を睨みつける。
「愛理が無事で済むよう、祈っておけ!」
「私が祈るべきなのは――」杏子は顔を上げ、彼の真っ直ぐな視線を受け止めた。声はかすれていたが、はっきりと伝わる。
「私の息子が無事でいることだけよ。知弘、もし直樹に何かあったら、私は来世も、絶対にあなたを許さない!」
二人の間に張り詰めた空気が流れる。
そのとき、手術室の扉が勢いよく開き、一人の医師が険しい表情で現れた。二人を見回しながら告げる。
「ご家族の方はいらっしゃいますか? 患者さんの傷は深く、出血がひどい。至急輸血が必要ですが、血液型の適合者が不足しています。どなたか、同じ血液型の方はいませんか?」