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第13話 彼女の世話をしてくれ

看護師の目には同情が浮かんでいた。「手術を受けたばかりで、体がとても弱っています……」

「代わりに私の血採ってください!」杏子は迷いなくきっぱりと言った。「取れるだけ取って、直樹を助けてくれた人の恩返しとして、ほかの人も私のように必要かもしれない!」

彼女の体はすでに限界を迎えていた。血液も、純粋だとは言い切れないかもしれない。


冷たい太い針が血管に刺さると、激しいめまいが一気に襲ってきた。


杏子は目を閉じ、しかしその口元にはほっとしたような微笑みが浮かんだ。

この血が、直樹に届く。それだけで十分だった。


彼女ははっきりと感じていた。自分の命の砂時計が、今まさに一気に落ちていくのを。


何年も前、白血病に苦しむ知弘を救うため、杏子は進んで薬の実験に参加した。大量の薬剤が彼女の健康を蝕み、医師からは「薬の副作用で三十年は寿命が縮むだろう」と告げられていた。

それでも、後悔などなかった。


その後、直樹を身ごもったとき、医師からは「胎児が残り少ない生命力を消耗し尽くす」として、強く中絶を勧められた。

杏子はきっぱりと拒否した。

知弘と自分の血を引く子ども。その存在だけで、命を懸けて産みたいと思った。


出産後、最も支えが必要だった日々に、知弘の姿はどこにもなかった。メディアのカメラに映るのは、いつも仁香と寄り添う彼の姿ばかり。絶望と孤独は杏子を産後うつの深い闇へと引きずり込んだ。


様々な苦しみを受けて、杏子の命は、二十六歳で尽きようとしていた。


仁香が亡くなり、愛理が現れ、知弘の視線は一度も自分に向けられることはなかった。


夜明けが近づくころ、手術室の扉がようやく開いた。


「直樹!」杏子は思わずベッドのそばに駆け寄った。


直樹の体には無数の線が繋がれている。幼い顔に、乾ききらない血の跡が残っていた。杏子の胸が締めつけられ、息もできないほどだった。


母の気配を感じたのか、直樹は重いまぶたを懸命に持ち上げた。


杏子の顔を見ると、弱々しく微笑みを浮かべた。


「直樹、がんばろうね。」杏子の声は震えていたが、誰よりもはっきりと響いた。「お母さんはずっとそばにいる。すぐ元気になって。怖がらなくていいよ。お母さんが守るから!」


直樹は力なくうなずいた。


杏子は身をかがめ、冷たいおでこに深くキスをした。「あなたは、お母さんのすべてよ。」


「すみません、すぐにICUへ移さなければなりません。」看護師が急かした。


杏子は慌てて身を引いた。


そのとき、ベッドが動き出す瞬間、包帯に巻かれた小さな手が布団の端から伸び、そっと彼女の指を引っかけた。


かすかながらもしっかりとした声が、杏子の耳に届いた。「お母さんがいい……お父さんはいや……」


杏子は雷に打たれたように、その場に立ちすくんだ。


直樹が、喋った!


けれど、その最初の一言が、杏子の心を鋭くえぐった。


ベッドはすでに廊下の奥へと運ばれ、再び彼女と息子を無情に引き離した。


「奥様。」小林の声が背後から聞こえた。どこか複雑な響きが混じっている。「社長がお呼びです。」


杏子は苦く微笑んだ。「小林さん、その呼び方、もうそろそろやめてください。」


「つい、慣れてしまって……」小林の目には一瞬、同情の色が浮かんだ。


「私のことで、彼に叱られないでくださいね。」杏子は小さく言い、愛理の病室へと向かった。


扉を開けると、目を覆いたくなる光景が飛び込んできた。


愛理が知弘の胸にしなだれかかり、彼は丁寧に水をコップで口元まで運んでいる。


その優しさは、杏子がどれだけ求めても得られなかったものだった。


「知弘……」愛理は怯えた小動物のように、さらに彼の胸に身を寄せ、震える声で言った。「まだ怖いの……」


「俺がいるから。」知弘の声は低く、揺るぎなかった。


愛理は潤んだ瞳でおずおずと尋ねた。「あの人……また私に刃物を……」


「もうそんなことはさせない。」知弘は杏子に鋭い視線を向け、冷たい声で言い放った。「杏子、跪け。」


杏子は背筋を伸ばしたまま動かなかった。「どうして私が?」


「愛理を殺しかけたこと、謝れ!」知弘の声には怒りが込められていた。


「ううっ……」愛理は泣き出し、知弘の胸に顔を埋めて訴えた。「お姉ちゃんは、あの人に殺されたのに、まだ罰も受けてない……今度は私まで殺そうとして……知弘、怖いよ……守って……」


知弘は愛理の背中を優しく撫でながら、杏子を鋭く見据え、一言一言を冷たく告げた。


「だったら――彼女をここに残して、君の世話をさせればいいだろう?」



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