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第15話 あなたを救うために、三十年の寿命を削った

杏子の顔は青ざめ、震える指先で彼の服の裾をそっと掴んだ。「直樹の前では……外で話してくれない?」

息子に両親の争いを見せるわけにはいかなかった。彼の繊細な心臓に、さらに重い負担をかけてしまうから。


「そんなガキが?」知弘の声は冷たく突き刺さる。「杏子、あいつはもう長くないんだ、わかってるのか?」


「直樹は死なない!」声がかすれても、杏子は必死に叫んだ。


「自閉スペクトラム症に心臓病、どうせ生きても役立たずだ。これ以上、持つわけがない。」

知弘の言葉は刃物のように杏子の胸をえぐる。


「これが俺を裏切ったお前への報いだ。産んだのは、できそこないだ。」


意外にも、杏子の口元にかすかな笑みが浮かぶ。その表情に、知弘の怒りが爆発した。「何がおかしい!」


「いつか、あなたも自分の滑稽さに気づく日が来るわ。」


「絶対にありえない。」彼はきっぱりと言い放つ。


「そうね。」杏子は静かに続けた。「私は、もうその日を待てないから……」


死はかつて、彼女にとって救いだった。でも直樹がいる限り、杏子は死ねなかった。せめて直樹の未来だけは、守り抜きたいと願っていた。


「悪運だけは強いな。」知弘は鼻で笑った。「お前はしぶとい。」


杏子は静かに彼を見上げた。「知弘。」


知弘の身体がわずかにこわばる。彼女がこの名前で呼ぶことはほとんどなく、彼自身もその響きを嫌っていた。


「私が死んだら――」杏子は小さく問いかける。「あなたは、一滴でも涙を流してくれる? 一滴だけでいいの。」


一瞬だけ、知弘の心に妙な感情がよぎるが、それをさらに冷たい言葉で押し殺す。「お前が死んだら、裏山にでも捨てて野犬の餌にしてやるよ!」


そう言うなり、彼は杏子の腕を乱暴に掴んで病室から引きずり出した。


直樹は怯えた目で二人を見つめている。


「直樹、大丈夫よ。お母さん、すぐ戻るから!」杏子は振り返って必死に呼びかけた。

またしても、息子との約束を破ってしまった――。


知弘はそのまま、杏子を幸田家の別邸の奥深く、冷たい地下室に力任せに放り込んだ。


分厚い鉄扉の外で、金属の錠前が冷たく鳴る。「杏子、お前のしたことは、十回殺しても足りない。でもな、気が変わった。」

知弘の口元に残酷な笑みが浮かぶ。「遊び方を変えてやるよ。」


杏子は鉄格子にすがりついた。「何をするつもり?」


「お前には、生き地獄を味わってもらう。ひとつずつ、お前の大切なものを奪い、壊してやる。お前が望むものほど、全部ぶち壊してやる。」


格子越しに、杏子の視線は哀しみに沈んだ。「私に何をしてもいい。でも、直樹だけは、どうか……」


「DNA鑑定の結果は動かせない。あいつは俺の子じゃない!」


「直樹はあなたの子よ!」杏子は叫んだ。追い詰められた叫びが、地下室に響く。「私を憎むのはいい。でも、直樹に手を出したら、私は死んでも化けて出て、毎晩お前に付きまとってやる!」


「鬼にになるってか?」知弘は冷笑した。「だったら祈神社の人でも呼んで、お前の魂を地獄に封じてやるさ。」

彼は踵を返す。扉の隙間から差し込む光が、彼の影を不気味に引き伸ばした。


薄闇の中、杏子の声が微かに響く――


「知弘、知ってる? あなたを助けるために、私は三十年も寿命を削ったの。」

「本当に……もうすぐ死ぬの。」

「あなたと結婚したこの四年が、最後のぬくもりだと思っていたのに、結局、抜け出せない奈落になった。」

「私がどれだけあなたを愛しても、どうしてこんな仕打ちを……」


扉の向こう、知弘の大きな背中は光の中でぼやけている。


返ってきたのは、毒のような呪いの一言だった。


「杏子、お前が死ぬ日には、東京中にお知らせて盛大に祝ってやるよ!」


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