鉄の扉が重々しく閉まり、その音が外の世界を完全に断ち切った。
杏子の周りは、まるで暗闇の中に閉じ込められたような混沌とした空間だった。
空気はじめじめとして重く、どこか腐敗したような不快な臭いが鼻を突く。冷たい湿気が骨の奥まで染み込んでくるような感覚に、思わず体が震える。
足元や隅から、絶えずカサカサとした物音が響いている。それはネズミが何かをかじる音や、ゴキブリの硬い殻が湿った床を這う音だった。
杏子は身を縮め、目を閉じた。濃い闇の中では、自分の目もほとんど役に立たない。ただ、胸の中で鳴り響く重い鼓動だけが、やけに鮮明に感じられた。
ここで死ぬわけにはいかない。今じゃない。
生きようとする意志だけが、暗闇の中でほんの少しだけ光っていた。
最初に襲ってきたのは、激しい渇きだった。
壁から染み出す冷たい水滴が、細い流れとなっていた。生きたいという本能が、汚れへの嫌悪感をかき消し、杏子はその水に口を寄せ、必死で飲み込んだ。
濁った液体が喉を通り過ぎ、すぐに腹の中で鋭い痛みとなって暴れ出す。
嘔吐と下痢に体力を奪われ、悪臭と冷たさの中で意識が遠のいていく。まるで、見えない大きな手に何度も揉みしだかれているような感覚だった。
絶対的な暗闇の中で、時間の感覚が消え去った。
何日目かもわからない。空腹は鈍い痛みに変わり、胃と理性をじわじわと蝕んでいく。
部屋の隅からネズミが硬いものをかじる「チューチュー」という音が、やけに神経に障る。
その音が響く暗闇の奥をじっと見つめ、杏子は無意識に喉を鳴らした。
理性で必死に抑え込んでいた、原始的な欲求が静かに芽生え始める。
――
一方、地獄のような地下牢とは対照的に、幸田家の別邸リビングには贅沢で気だるい空気が漂っていた。
愛理は美しく盛り付けられたフルーツの皿を手に、しなやかな身のこなしで知弘の隣のソファに寄り添った。
「さっき切ったばかりよ。新鮮だから食べてみて?」
艶やかな声で、愛理は指先で丸い葡萄をつまみ、知弘の唇へと差し出す。
知弘は何も言わず、黙って口を開け、葡萄を受け取った。
甘い果汁が舌の上で広がり、愛理のほのかな香水の香りもふわりと漂う。
仁香の死は、知弘の心に消えることのない深い傷を残していた。それでも今、この場所で愛理の存在が、静かにその空虚を埋めてくれているようだった。
「怪我が治ったばかりなんだから、無理しなくていい。」
知弘は淡々とした口調で、化粧の施された愛理の顔をじっと見つめた。
「ここにいる人たちは、皆きみのために動く。」
愛理は、姉の仁香よりも男心を掴む術を心得ていた。
甘えるのも上手く、絶妙なタイミングで色気を見せることもできる。
知弘の言葉に、愛理はさらに深く微笑み、今度は真っ赤な苺を摘んで見せた。
「じゃあ……知弘、あなたも私の言うこと、聞いてくれる?」
知弘は横目で愛理を見た。その目には、複雑な思いが浮かんでいた。
「俺がきみの面倒を見るよ。」
「知弘……」
愛理はさらに声を落とし、わざとらしく甘く、苺の端を歯でくわえ、もう片方を知弘の唇の前にゆっくり差し出した。
「お姉ちゃんの代わりに、私をあなたのそばに置いて……いいでしょ?」
同時に、果物を持っていない方の手が、そっと彼の太もも内側へと滑り込んだ。探るような、誘惑するような仕草だった。
知弘は動かない。拒むことも、受け入れることもしなかった。
その無言の許しに、愛理の手つきはますます大胆になり、指先の熱がはっきりと伝わってくる。
「ゴホッ! ゴホゴホッ!」
突然、玄関から鋭い咳払いが響き、甘い空気が冷水を浴びせられたように打ち消された。
愛理は手を引っ込め、目に一瞬、苛立ちがよぎった。
――誰よ、こんな時に!
気を取り直して声の方を向き、相手の顔を確認すると、表情はすぐに作り笑顔に変わった。
「幸田さん。」
幸田一真が落ち着いた足取りで部屋に入ってきた。軍隊仕込みの姿勢が、自然と威圧感を漂わせている。
鋭い眼差しがリビングを一瞥し、愛理の上で一瞬止まる。
「もう下がっていい。」
知弘は手を振り、身を起こす。先ほどまでの気だるさは消え、警戒心が顔に浮かんでいる。
「何の用だ?」
幸田一真は、知弘の実の弟だ。
幼い頃、体が弱くて父親に無理やり軍隊に入れられ、そこで鍛えられた。帰ってきたときには、兄とは異なる冷徹で硬い雰囲気を身につけていた。まさに戦場をくぐり抜けてきた男の空気で、知弘の育ちの良さとは対照的だった。
「さすが兄さんだね。」
一真は、慌ただしく去っていく愛理の背中を見ながら、感情の見えない声で言った。
「もう慰め役を見つけたんだ。仁香の穴埋めは早かったな。」
「彼女は仁香の妹だ。」
知弘の声が低くなる。
「じゃあ、姉への気持ちを妹に移すつもりか?」
一真は眉を少し吊り上げた。
知弘は苛立たしげにネクタイを緩める。
「俺のことに口出すな。」
「わかったよ。」
一真はそれ以上追及せず、鋭い目で部屋を見回す。何かを探しているようだった。
「杏子は?」
「杏子?」
知弘の目が一気に冷たくなる。
「何の用だ?」
「どこにいる? 会わせてくれ。」
一真は腕を組み、静かながらも揺るぎない決意をその目に込めている。
「直接聞きたいことがある。」
「まず、何の用か言え。」
知弘は命令口調になる。
一真の瞳が一瞬で深い色に変わり、嵐の前の海のように、激しい感情を内に秘めていた。
「彼女は薗未来の居場所を知ってる。俺は、未来がどこに隠れているのか聞き出したいんだ。」
知弘の口元は硬く引き結ばれる。
四年間、名ばかりの夫婦だったが、彼の中に杏子への感情は、仁香の死に対する怒りと無関心しかなかった。
ただ一つ、はっきり分かっているのは――
この女は、普通の人間とは比べものにならないほど、口が堅くて、しぶとい。
「未来とは長い付き合いだから、知っているはずだ。でも絶対に口を割らない。」
「口を割らない?」
一真は冷たく笑った。その笑みには、氷の刃のような鋭さがあった。
「彼女の意志なんて関係ない。未来のことはもう逃げ切れない。必ず、俺の元に戻ってくる。」
幸田一真の中で、ある女性ーーー未来への執着は長い間、消えることなく渦巻いていた。
あの大胆過ぎな女は、彼が意識を失っている間に関係を持ち、更にその証拠写真まで撮って“記念”にすると言い放ち、そのまま跡形もなく消えてしまった。
一真にとって、それは屈辱以外の何物でもない。
幸田家の次男が、女に手玉に取られ、しかも相手の行方も掴めないなんて、世間の笑い者でしかない。
このままでは終われない。必ず、決着をつけてやる。