あの夜、実は何も起こらなかった……すべては仁香の仕組んだことだった。
だから、彼女は最初から妊娠なんてしていなかった!
あれは杏子に離婚を迫り、知弘に決断を迫るための手段にすぎなかったのだ。
もしうまくいけば、知弘と一緒になり、いずれ子どもはできるはず。
失敗すれば……流産したふりをして、すべて杏子のせいにするつもりだった。
まさか愛理が突然手をくだすとは思わず、すべてが狂ってしまった!
仁香は今、焦りと苛立ちでいっぱいだった。
「仁香……」知弘はまたも彼女から距離を取った。「まず服を着てくれ……」
「いや、私をあなたに捧げたいの!」
彼女は今も純潔のままだ。このままじゃいけない。
どうしても知弘に自分の初めてを捧げなければ!
仁香は必死にアピールしたが、知弘は終始自制し、彼女を止めようとするだけだった。
二人がこう着していると、ドアの外から冷たい声が聞こえた。
「そんなに我慢できないの?もう始めてるの?」杏子の声だ。「仁香、普段は清純ぶってるくせに、裏ではずいぶん積極的なのね……」
知弘は眉をひそめ、急いで上着を仁香にかけて振り返った。
ドアの前には杏子が立っていた。
予想していた光景だったが、実際に目の当たりにすると――
心が鋭く刺された。
杏子は静かに深呼吸し、その痛みを必死に押し殺した。
もしかしたら、彼女の知らないところで、知弘と仁香は何度も激しく愛し合っていたのかもしれない。
知弘は仁香にはきっと優しいのだろう。自分のときのように、ただ乱暴で奪うだけの男じゃないはず……。
杏子は無理やり想像を止めた。
「何しに来た!」知弘は冷たく言い放った。「出ていけ!」
「来てはいけない理由でも?それとも、お邪魔だった?」
「杏子、いい加減にしろ!」
彼女は怯まず言い返した。「仁香と寝たいなら、別にいいけど、せめて目の前やこの家ではやめて。外でいくらでもホテルあるんだから、部屋を取るくらい簡単でしょ?」
「この家をお前が仕切るつもりか?」
「私は杏子、知弘に正式に迎えられた妻よ!この家の使用人だって私を奥様と呼ぶ。私はこの家の主人よ!」杏子は背筋を伸ばした。
知弘は鋭い目で杏子を見つめた。
最近の杏子は、もう弱くはなく、言葉も鋭く、何度も彼に食ってかかってきた!
だが、彼女にはどうすることもできなかった。
仁香は知弘の胸にすがりつき、今にも泣きそうに言った。
「知弘……杏子の言うとおりよ。私は何の肩書きもなく、世間から見ればただの家庭を壊す女でしかない……」
「そんなこと言うな。」
仁香は鼻をすすり、目に涙を浮かべて言った。「ずっと気にしないようにしてきたの。だって私はあなたを愛してるから、あなたのそばにいられれば、どんな噂も気にならないはずだった。でも今は……それが一番の弱点になってる。」
愛だけでは足りない。正式な立場が欲しい!
知弘と杏子が離婚しなければ、自分が幸田の奥様になれない!
知弘は低い声で言った。「誰もそんなこと言わせない。」
「でも杏子はもう言ったわ……」
「私は事実を言ってるだけ。ひと言も間違ってない。」杏子は冷たい目で言った。「仁香、都合よく振る舞っても、世の中はそんなに甘くないわ。」
仁香は唇をきつく噛み、涙が頬を伝った。
その無垢で愛らしい顔は、まるで可憐な白百合のように見る者の同情を誘った。
彼女は本物、愛理のような身代わりではない。ただその姿だけで知弘の心は大きく揺さぶられる。
案の定、知弘は杏子を鋭い目で睨みつけた。「謝れ!」
「絶対に、無理よ!」
「杏子!命が惜しくないのか?」
「ええ、もうどうでもいいの。」杏子はきっぱりと言った。「この世に、私にはもう未練なんてないわ!」
「理恵を捕まえて、父親の無念を晴らしたくないのか?」
杏子の体がわずかに震えた。
そう、生きていれば父の仇を討ち、高橋家の名誉を取り戻すチャンスがある。
自分が死んだら、誰が東京に高橋家があったことを覚えていてくれるだろう……。
杏子は思った。本当に疲れた、と。自分のために生きたことなんて一度もなかった。
昔は直樹のため、今は高橋家のために生きていた。
「知弘、あなたは脅すことしかできないの?」杏子は歯を食いしばって言った。「私がここに来たのは、ホテルに行けって言いに来ただけ!お金が足りないなら、私が払ってあげるわ!」
そう言い放って、杏子は勢いよくドアを閉めた。
これで台無しだ。知弘の気分もすっかり冷めてしまった。
仁香はぐったりと知弘に寄りかかった。
「もう部屋に戻って休んでいなさい。」知弘は言った。「この別邸は安全だ、安心して眠れ。」
「知弘、一緒にいてくれないの?」
「まだ用事がある。」
「でも……」仁香は食い下がろうとしたが、知弘の表情を見て、言葉を飲み込んだ。
彼に嫌われるのは困る、ほどほどにしておこう。
杏子のせいで邪魔されたこと、絶対に忘れない!
知弘は外で一本煙草を吸ってから主寝室に戻った。
杏子は背を向けて寝ているようだった。
彼は近づき、いきなり布団を剥ぎ取った。「寝たふりなんかするな!」
「頭おかしいの?仁香のところにいればいいのに、なんで私のところに来るの?」
「お前を辱めに来たんだ!」
知弘はネクタイを引きちぎり、素早くシャツのボタンを外した。
杏子は冷たく笑った。「どうしたの?仁香じゃ満足できなかった?」
「正直に言うと」知弘はベッドの端に膝をつき、顔を近づけた。「お前はベッドの上ではちょっと腕があるな。」
杏子は唇を強く噛んだ。その侮辱的な言葉に我慢できなかった!
自分は何もしていない!悪意で貶めているだけだ!
「ふん」杏子は皮肉な笑みを浮かべた。「知弘、あなたって本当に哀れね。ろくに女も知らないんでしょ。私みたいな女でも、あなたは体を忘れられないの?」
知弘は突然彼女の顎を強く掴んだ。「もう一度言ってみろ!」
「日本語がわからないの?」
「いいだろう、杏子。最近ずいぶん強気じゃないか!」
「愛してないからよ。」杏子はまっすぐ彼を見つめて言った。「手放してみてわかったの。たくさんのことが、急に理解できた……。」
彼は仁香の知弘、もう自分の記憶の中の少年じゃない!
杏子は布団を引き寄せ、背を向けて寝ようとした。
知弘は顔色を変えた。
最近、杏子に何度も感情をかき乱されるが、どうしても彼女を抑えきれなかった!
この女は、まったくもって手に負えない!
怒りに燃えた知弘は、高く手を振り上げ、思い切り仕返ししてやりたい衝動に駆られたが、結局その手は彼女の尻を叩くだけだった。
「パシッ——」
「知弘!この変態!」杏子は驚きと怒りが入り混じった声をあげた。