朝の光が差し込む頃。
杏子はバッグを手に階段を下り、そのまま外へ向かった。
知弘や仁香と同じテーブルで朝食なんて、絶対にごめんだ。
気分が悪くなるだけ。
「奥さま!」藤井が慌てて声をかけた。「まだ朝ごはんを召し上がってませんよ!」
「仕事に行ってくるわ!」杏子は振り返りもせずに答えた。
ダイニングでコーヒーを手にしていた知弘は、険しい表情で言い放った。「彼女を止めてこい!」
顔を合わせたくない?それなら余計に会わせてやる。
「はい!」とボディガードたちが追いかけた。
杏子は素早く車に乗り込み、すぐにロック。ハンドルを握りしめ、前方で道を塞ぐガードマンたちを睨みつけて、一切の躊躇なくアクセルを踏み込んだ。
車は一気に加速した。
体で車を止める勇気などあるはずもなく、ボディガードたちは慌てて避けるしかなかった。
窓辺に立つ知弘はその様子を見て、怒鳴りつけた。「バカども、門を閉めろ!」
ボディガードたちは慌てて正門を閉じ、バーを下ろした。
杏子は素早くハンドルを左に切り、車体をきれいにスピンさせた。タイヤが地面を擦る音が鋭く響いた。再びアクセルを全開にし、今度は裏門へと向かう。
裏門は自動センサー式。車が近づくとバーが上がる。杏子はそのままアクセルを踏み込み、一気に門を抜け出した。
ボディガードたちが慌ててバーを下ろそうとスイッチに飛びついたが、間に合わず、バーはかろうじて車の後部をかすめただけだった。
杏子は窓を下げて後ろに挑発的なジェスチャーを送り、そのまま走り去った。
この私を止めようなんて、無駄よ。
知弘は拳を握りしめ、苛立ちを隠せなかった。杏子はまたしても彼を怒らせた。
テーブルの脇で仁香は黙って彼の背中を見つめていた。かつて彼は杏子が家にいるかいないかなど気にしたこともなかったのに、今では彼女の行動に心を乱されている。杏子がいなかった間、いったい何があったのか——知弘の心をこれほどまでに揺さぶる理由は何なのか。
「役立たずばかりだ!」知弘は怒りを爆発させた。「全員反省してこい!」
一方の杏子は上機嫌で、鼻歌を歌いながら朝食屋に立ち寄った。最近は食欲も落ち、何度か吐いたこともあったので、しっかり栄養を取ろうと思ったのだ。
店から漂う天ぷらの香りが鼻を突く。近づいた途端、その油っぽい匂いに——
「うっ……」
杏子は口を押さえて隅に駆け寄り、必死にえずいた。
天ぷら屋のスタッフはそれを見て、にっこり笑った。「お嬢さん、もしかしてご懐妊かしらね。」
「え?」杏子は呆然とした。
スタッフは明るく笑い、「早く病院で診てもらいなさい!」と言った。
杏子は雷に打たれたような衝撃を受けた。
妊娠?
そんなはずは——
直樹を産んだあと、体がボロボロになり、医者からは療養が必要だと言われた。ましてや、あの時バーで腹を蹴られて出血し、医者からはもう妊娠はほぼ無理だと告げられていた。その言葉に、女としての最も大切なものを奪われた絶望を味わったのだ。
杏子は慌てて車に戻り、すぐに病院へ向かった。
どうしても信じられなかった。
産婦人科は混雑していて、妊婦たちのほとんどが夫に付き添われていたが、杏子は一人だった。
それにも慣れている。直樹を妊娠した時も、知弘が一度でも付き添ってくれたことはなかった。
「2杏子さん!」
「はい。」杏子は立ち上がり、診察室へ入った。
「妊娠しています。六週間目です。」医師が顔を上げた。「ご家族は?」
杏子は首を振った。
「産みますか、それとも……?」
「……産みます。」杏子は一瞬ためらったが、きっぱりと言った。
「詳しい妊婦検診を受けて、数日後に結果を聞きに来てください」と言った。
「分かりました。」
病院を出た杏子の頭は真っ白だった。
まさか、また妊娠するなんて。
子どもの父親はもちろん知弘。彼は自分をただの捌け口としか思っていなかったから、何も避妊など考えていなかったのだろう。まさか壊れた体で再び命を宿すとは思いもしなかったに違いない。
杏子の命はあと二年ももたないかもしれない。もしこの子を産んだら、寿命はさらに縮まるだろう。それでも、たった一人の直樹のことを思うと、弟か妹がいた方が……と心が揺れた。
「このアバズレ、今日こそ捕まえたわ!」横柄な女の声が響いた。「あんたみたいな汚らわしい女は、こうやってしょっちゅう病院に来て、変な病気をうつさないように気をつけなさいよ!」
杏子が顔を上げると、サングラスに高級なワニ革のバッグ、きらびやかな格好の絵里香が立っていた。
「アバズレって誰のこと?」杏子は冷ややかに返した。
「もちろん、あんたのことよ!」
「ふーん。」
絵里香は一瞬呆気に取られ、すぐに怒りで足を踏み鳴らした。「杏子!よくも私を侮辱したわね!」
「あなた自身がそう認めたじゃないの?私には関係ない。」杏子は淡々と背を向けた。
「待ちなさい!」絵里香が立ち塞がった。「私の貴彦に近づかないで!あなたなんか、ふさわしくない!」
「ふさわしいかどうか、あなたが決めることじゃないわ。」
「誰もが知ってるのよ、私が将来貴彦のお嫁さんになるって!」絵里香は自信満々に言った。「あんたなんて、彼に一時の遊びで相手されてるだけ!」
杏子は振り返ってにっこりと笑った。「彼は私と遊ぶほうが、あなたに触れるよりマシだと思ってるみたいね。少しは自分を省みたら?」
「な、何ですって……!」絵里香は顔を真っ赤にし、「あんたみたいな妖艶な女が色仕掛けをしてるからでしょ!」
「私は知弘の女よ。幸田家の力が津川家に劣るとでも?」
「自分の居場所を探してるだけじゃない!」
杏子は冷たく鼻で笑った。「好きに思えば?」