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第67話 だからこそ

車のドアを開けようとすると、絵里香が腕をつかんだ。「母さんが言ってたわよ、あんたみたいな卑しい女は、きっとそのうち痛い目を見るって!」


ああ、侑香は絵里香の前で自分をそんなふうに言っていたのか。

杏子は無表情で言った。「母親がいて、そんなに誇らしい?」


「もちろんよ!母さんは私を一番大事にしてるの!」絵里香は得意げに鼻を鳴らした。「あんたみたいな孤児とは違うわ。しかも犯罪者の娘だなんて……親にどう育てられたのやら!」


杏子は目を閉じて小さく息を吐いた。「あなたの両親も、あなたをろくに育てられなかったみたいね。口を開けば汚い言葉ばかり、教養のかけらもない。」


「こんな女に教養なんて必要ないのよ!どうせあんたは親もいない、哀れな女じゃない、男に頼るしか……きゃっ!」


絵里香の言葉が終わるより早く、「パチン」と乾いた音が響いた。

杏子が迷いなく平手打ちを食らわせたのだ。

素早く、的確に、そして容赦なく。


「な、なによ、私に手を出すなんて!」絵里香は頬を押さえ、怒りに震える。「今まで誰にも叩かれたことないのよ!」

「ええ、あなたみたいな野良犬には、これくらい当然」

絵里香は悲鳴を上げながら杏子に飛びかかった。


しかし、手が杏子の服の裾に触れる前に、力強く掴まれ、身動きできなくなった。


杏子の中では、侑香はもうとうに死んだも同然だった。あんな冷酷な母親など、この世にいない。


絵里香は両頬をぶたれ、もがいても逃げられず、叫ぶしかなかった。「誰か!警察呼んで!助けて、殴られた!」


なんてうるさいんだ。


侑香が人生をかけて育てたのが、こんな娘だなんて――。


杏子は車のドアをバタンと閉め、アクセルを踏み込んで、その場を後にした。


夜。


バスルーム。


一日中忙しく過ごした杏子は家に戻り、浴槽にたっぷりとお湯を張って、疲れた体を沈めた。


誰にも邪魔されない静寂の中で、これからのことをじっくり考える必要があった。


残された命はあと二年もない。直樹のため、これから生まれてくる子どものため、自分に何ができるのだろう……。


杏子は傍らにあるコップを手に取り、ワインを一口含んだ。温かな湯が全身を包み、ワインのほろ酔いが心地よい。いつしか、杏子は深い眠りに落ちていった。


手から滑り落ちた杯が「コトン」と浴槽に沈む。淡いワインの色が湯の中へと広がり、次第に鮮やかな赤色に染まっていった――。


階下。


知弘はネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。表情は冷ややかだ。


「お帰りなさい。」仁香が駆け寄り、上着を受け取った。「今日は私が料理したの。ぜひ食べて!」


知弘は生返事でうなずき、藤井に目を向けた。「彼女は?」


誰を指しているのか、説明する必要もなかった。


「奥様は帰宅するとすぐ二階に上がられました。お疲れの様子で、誰も邪魔するなとおっしゃっていました。」と藤井。


「随分と偉そうだな。」知弘は鼻で笑った。


仁香は知弘の腕を取った。「知弘、もう放っておいて。先にご飯ににしよう?」話題を逸らすように、ダイニングへ誘った。


だが知弘はその場を動かず、冷たく命じた。「呼んでこい。一緒に食べる。」


食べたくない?なら、無理にでも食わせる。たとえ喉を通らなくてもだ。


「かしこまりました、すぐ……」


「いい。俺が行く。」知弘が仁香の手を振り払い、階段を上っていった。


「知弘!」仁香は思わず声を上げた。


「ん?」知弘が立ち止まった。


「……なんでもないわ。」仁香は不満を呑み込んだ。彼の前では、いつも通り優しくいなくてはならない。


知弘は寝室のドアを開けた。中は静まり返っていた。


「杏子。」眉をひそめる。「どこだ?出てこい!」


黙っていれば逃げ切れると思っているのか?この女、最近ますます面倒くさくなった。


クローゼットも洗面所も探した末、知弘はバスルームのドアを勢いよく開け放った。そこで、浴槽にもたれかかる杏子の姿を見つけた。


「ここに隠れてたのか。」冷ややかに笑った。「何か言えよ。」


普段なら、すぐに鋭く言い返すはずなのに――。


だが、この時、浴槽の中の杏子は微動だにしなかった。


「杏子!」知弘の顔色が変わった。「ふざけてるのか?聞こえないのか!?」


それでも、杏子は全く動かない。


知弘の胸に不安がよぎり、急いで近づいた。目の前の光景を見て、思わず息を呑んだ。


浴槽の水は、真っ赤に染まっていた。


杏子は目を閉じ、唇も真っ白で、生気がなかった。


まさか……手首を切ったのか!?


その考えが雷のように頭を駆け抜け、知弘は一瞬で全身の血が凍りついた。


「杏子!」何もかも忘れ、濡れた杏子を浴槽から引き上げた。「起きろ!しっかりしろ!」


「絶対に何かあっちゃダメだ、わかったか!」


「死ぬことは許さない!」


「こんな方法で俺から離れようなんて、絶対にさせない!」


知弘はタオルを掴んで杏子をくるみ、そのまま抱きかかえて階段を駆け下りた。


藤井と仁香は、その光景に呆然と立ち尽くした。


「車を用意しろ!病院へ行く!」知弘の目は焦燥に満ちていた。「急げ!」


今の知弘の頭の中は、杏子の安否だけだった。


「奥様は……」


「車だ!早くしろ!」知弘は怒鳴った。


仁香が駆け寄った。「知弘、落ち着いて……」


「落ち着けるか!」


「でも、相手は杏子よ……」


「杏子だからこそだ!」知弘は叫び、仁香を一瞥もせず杏子を抱えて到着した車に乗り込んだ。


仁香の存在など、完全に無視されていた。


車は闇夜に消えていった。


仁香はその場に立ち尽くし、信じられない思いだった。知弘が杏子を抱え、あれほどまでに必死で心配している姿が、あまりにもはっきりと目に焼き付いた。これが初めてじゃない。彼が自分にこんな態度をとったことが、かつて一度でもあっただろうか?一体どこで間違ったのだろう。自分の魅力が通用しなくなったのか、それとも……知弘の心が変わったのか。杏子を愛し始めたのか?きっとそうだ!杏子なんかに……許せない!


病院の救急外来。


知弘は杏子を抱え、全速力で駆け込んだ。一秒でも早く、彼女を救いたかった。通りかかった医師の腕をつかんだ。「助けてくれ!早く!」


「どうされました?」医師は驚いた様子だった。


「手首を切ったんだ!」知弘は半ば錯乱して叫んだ。「助けてくれ、死んだら困る!」


医師は杏子の腕を取り、確認した。


両手首はきれいなままで、傷一つなかった。


「どこが切れてるって言うんです?」医師は不思議そうに言った。「傷はどこにもありませんよ。」


知弘も一瞬呆然とした。あの浴槽の鮮やかな赤色は……?


医師はさらに杏子の呼吸と脈を調べた。「大丈夫ですよ。ただ眠っているだけです。」


「眠ってる?」知弘は驚いた。


「正確には、かなり深い眠りですね。どこで発見しました?」


「浴室の中だ。」


「それなら納得です。長く浸かると、脱力して意識を失うことがあります。心配なら、点滴を受ければすぐに回復しますよ。


つまり――


杏子は眠り込んでいただけ?


では、あの真っ赤な“血”のようなものは、一体……?

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