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第68話 愛は賭け事

病室。


杏子は静かに横たわり、知弘はベッドの脇に立ち、彼女の顔を見つめていた。


あのとんでもない勘違いを思い出すたび、彼は恥ずかしさで顔が火照るばかりだった。あんなに取り乱して怒鳴ったのに、この女は……ただ深く眠っていただけだった!


本気で彼女を揺り起こしてやりたかった。だが結局、知弘は顔をしかめて椅子に腰掛けるだけだった。


杏子は頭が重く、やっとの思いで重たいまぶたを開けた。目に入ったのは真っ白な天井、そして点滴のボトル、病室、そして隣にいる知弘――


病院だ!どうして自分が病院に?


杏子は勢いよく起き上がり、動きが急すぎて点滴が大きく揺れた。


「目が覚めたか?」知弘は腕を組んで冷たい視線を彼女に向けた。「なかなか巧みな手口だな……」


杏子は驚きと恐怖でいっぱいになった。「な、何のこと?」


今日妊娠が発覚したばかりなのに、もう知られてしまったの?


どうしよう!絶対に子どもを堕ろせと言われる!杏子は無意識にお腹を守ろうとしたが、ぐっと我慢した。


「手首を切ったふりをして、誰を脅かそうとした?」知弘が問い詰める。「みんなを心配させて楽しかったか?」

杏子は呆然とした顔で、「え?」と答えた。

「まだとぼける気か!」

「本当に意味が分からない……」


手首なんて切ってない。お風呂に入っていただけなのに!


知弘は鼻で笑った。「演技はどんどん上手くなってきたな、杏子。浴槽の中の血のような水は何だ?」

「私、やってない……」

「言い訳か!」

この女には本当に腹が立つ!


杏子はふと思い出したように目を光らせた。「もしかして……ワインのこと?」

知弘は一瞬とまどった。


「お風呂に入っていた時、少しワインを飲んで、そのまま疲れて寝てしまった……その後のことは全然覚えていいない!」杏子は説明した。


知弘も思い返してみると、たしかに浴槽にコップがあった気がする。


つまり……自分が大騒ぎして大恥をかいただけ?自分が勝手に慌てて騒ぎ立てただけだったのか?


知弘の顔がみるみるうちに険しくなる。


杏子もようやく理解した。「あなた、私が……自殺したと思ったの?」

知弘は無言で顔をそむけた。


杏子はひそかに安堵の息をついた。

よかった……妊娠のことがバレたわけじゃなかった。


さっきは心臓が止まりそうだった。

「あの……」杏子はなんとか空気を和らげようとした。「誤解させてごめんなさい……ワインのことなんて全然……」


「……」


「私を運んできたのはあなた?」


「……」


「もう大丈夫ですから、帰ってください」杏子はベッドから降りて靴を履こうとした。

だが知弘は彼女を押さえた。「点滴が終わっていない」


杏子は仕方なくまた横になる。


知弘の冷たさには慣れていたが、今のような「気遣い」には逆に戸惑いを覚える。


しばらくして、杏子は小さな声で尋ねた。「知弘、もし私が本当に死んで、あなたの前から完全に消えたら……あなたはどうする?」


「お前みたいな厄介者はそう簡単に死なない」


杏子はわずかに口元を歪め、それ以上何も言わなかった。

だが知弘はふと思い出したように言った。「前に言ったことがあるだろう……自分は長生きできないって?」


「言ってないわ」と杏子は静かに否定した。「あなたの勘違いよ」

「いや、言った!間違いなく言った!」


知弘の記憶はますます鮮明になる――あの時、風前の灯のように弱々しかった彼女が泣きながら言ったのだ、自分は……


二十六歳までしか生きられない、と!

さらに、三十年分の寿命を縮めた、とも!

彼は思わず彼女の肩をつかんだ。「なぜ認めない?」


「私が死ぬのをそんなに望んでるの?」杏子は彼を見上げて言った。「私が死ねば、堂々と仁香と結婚して、一生添い遂げられるものね」


その言葉を口にしたとき、全身が痛みに包まれた。

目の前のこの男を、杏子は青春のすべてをかけて愛してきた。

輝いていた少年時代から、今や幸田グループのトップにまでなった彼まで。


だが、あの頃の知弘は自分のものだったが、今の彼は仁香のものだ。


「違う」と彼は歯を食いしばった。「まだお前を苦しめ足りない。死ぬなんて許さない!」


「あなたが私を憎んでいるのは、仁香を殺したと思っているから。でも私はやっていないわ」杏子は言った。「今あなたが私を憎んでいる理由も、結局、幸田家の奥様の座を私が奪っているからでしょ。だったら……」


杏子は一言ずつはっきりと告げた。「私は譲るわ!身を引く!負けを認める!」


愛は賭け事のようなもの。

彼女は完敗だった。


「また離婚したいのか?」知弘は目を細めた。「今度は選修一か、それとも貴彦か?」

「誰を選んでも、あんた、幸田知弘だけは絶対にない!」

「結婚契約を忘れるな。俺は絶対に離婚を言い出せない!」知弘はきっぱりと言った。


杏子は皮肉に笑った。「でも契約には、私が言い出してはいけないとは書いてない」

「違う!お前の勘違いだ!」

「そんなはずないわ!ちゃんと契約書に書いてある!」


あの契約書はくっきり覚えている。知弘が一方的に離婚を言い出せないように縛っただけ。

自分には制限などなかったはず。


「杏子、帰ったらもう一度契約書をよく読め」知弘は口元に冷たい笑みを浮かべた。「何年か経ってから読み直すと、驚きがあるぞ」


杏子は胸がざわついた。

まさか、本当に間違えて覚えていた?


「あの契約書は全部見直したし、弁護士にも確認した」知弘はぐっと身を乗り出して彼女の顎をつかんだ。「お前は俺の逃げ道を塞いだつもりだったが……自分自身の道も断っていたんだな」


杏子は、この男の本心が今もなお分からなかった。

彼は一体、何を望んでいるのだろう。


「離婚させてくれないのは、仁香を幸田家の奥様にしたいから?」


「仁香が幸田家の奥様になろうと、なるまいと、彼女は永遠に俺の最愛の人だ」知弘は答えた。「そしてお前は、たとえ一生幸田家の奥様でも、俺の愛情は一切与えない!」


杏子が反論しようとした瞬間、風のような勢いで誰かが駆け込んできた。

そして次の瞬間、未来の怒鳴り声が響いた。「知弘、このクズ野郎!最低のバカ男!」


未来は風のようにベッド脇に駆け寄り、知弘を押しのけて杏子をかばった。

「また杏子に何したのよ!彼女はあんたの妻でしょ。男として最低よ!」


「男じゃなかったら、直樹がいるはずないだろ」


「はっ!一真が言ってたわよ、あんた昔、直樹が自分の子じゃないかもって疑ってたって!」未来は容赦なく皮肉った。「こんなバカな父親、他にいないわ!」

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