桜ヶ丘マンションの教職員宿舎の灯りは、夜遅くまでともっていた。
ここは商科大学の教職員用の宿舎で、鈴は就職してからずっとこの部屋で暮らしている。
健太は腫れ上がった鈴の足首をそっと支え、手のひらで湿布薬を温めていたが、どうしても心配が拭えない様子だった。
「本当に病院に行かなくて大丈夫?」
「大丈夫だよ、健太。もう遅いし、帰ろう。」
「今夜は俺がここに残って看病するよ。」
健太は薬箱を片付けると、鈴の隣に腰を下ろし、そのまま彼女を優しく腕の中に抱き寄せた。
鈴の背筋が少しだけ強張り、まぶたが二度ほどぴくりと動いた。
「健太、私……」
「わかってるよ、余計なことは考えなくていい。」健太は笑いながら鈴の背中を軽く叩いた。「足もこんなだし、俺だって変なこと考えたりしないよ。」
鈴は顔を赤らめ、健太の冗談に少し恥ずかしそうな表情を浮かべた。
健太はそんな鈴の様子を見つめ続け、視線を彼女の顔から離せなかった。
鈴は化粧をしていなくても、その端正な横顔はやはり目を引く。
付き合い始めてから何度も他の男たちの視線を感じてきたが、健太は彼女の性格を信じていた。
控えめで頑固、一途な人だと。
だけど、あの凛……
「次にあいつがまた何かしてきたら、警察に連絡しよう。」健太は真剣な表情で言った。「これ以上我慢する必要はないよ。」
鈴は沈黙し、きゅっと唇を結んだまま、頭の中にはあの男の顔が浮かんでいた。
まさか、あの人が凛の叔父だったなんて――
黒澤征、黒澤凛……世の中にこんな偶然があるものか。
鈴は前から凛の家柄が普通じゃないと感じていたが、今回のことで確信に変わった。
あの男のやり方と力を、鈴はかつて思い知ったことがある――
彼の言う通り、やりたいことは何でもやれる人だった。
「健太、この件は私に任せて。しばらくは静かにしておきたいから、健太もあまり凛に関わらないで。」鈴は深呼吸して言った。「もうすぐ結婚するんだし、今こんなことで騒ぎたくない。」
健太はうなずいた。「じゃあ、もう二人きりで会ったりしないでね。」
鈴は柔らかく謝った。「うん。今夜は本当に偶然だった。ごめんね。健太まで巻き込んじゃって……」
健太は苦笑しながら彼女の頭を優しく撫でた。「もうすぐ夫婦になるのに、そんなに遠慮しなくていいんだよ?」
午前零時半、鈴はベッドに横になったが、なかなか眠れなかった。
頭の中を占めるのは、あの男の影ばかり。
昔、きっぱりと別れたあの時、もう二度と会うことはないと思っていた。
でも今夜の彼の目――
二年間一緒にいたから、なんとなく彼のことは分かるつもりだった。
健太が彼女を抱きしめた時、彼の目の奥に冷たい光が宿っていた。
断片的な記憶が突然頭をよぎる。
男が彼女を机に押し付け、耳たぶに歯を立てて囁いた、あの血の気の引く声――
「他の男に触れさせてみろ。足を折って、そいつもただじゃおかない。」
その瞬間、鈴は全身が震え、冷たい汗が背中を濡らした。
ありえない。
もう終わったことだ。
黒澤征ほどの男なら、女なんていくらでも手に入る。
自分なんて、彼が集めたものの中で一番どうでもいい存在だ。
ただのお金で買われた消耗品に過ぎない。
彼に執着されるような理由なんて、どこにもないはず。
鈴は自分に言い聞かせるように、なんとか気持ちを落ち着かせ、ぼんやりと眠りについた。
けれど、その夜はずっと悪夢を見続けた。
夢から飛び起きた時、シーツは冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
朝五時、陽が昇り始め、窓の外では鳥がさえずっている。
空はどこまでも青い。
鈴はその青空を見つめながらも、心は晴れなかった。
胸の鼓動を静めようと窓辺に立ち、昨夜の夢のことばかり考えていた。
夢の中では、黒澤征が目の前で健太の両手両足を切り落としていた。
どうしてこんな残酷な夢を見たのか、自分でもわからない。
目が覚めても、しばらくは恐怖が消えず、息も整わなかった――
なんだか、前より彼が怖くなってしまった気がする。
そういえば――
昨夜、凛が「叔父さんは最近戻ってきた」と言っていた。
じゃあ、またすぐにいなくなるはず――
「今回は、もう戻らないのか?」
松本が青磁の茶碗を征の前に差し出した。
「……ああ。」征は指先で温かな茶碗をなぞりながら、短く答えた。
「おめでとう。流浪の日々も終わりだな。」和也が笑いながら杯を持ち上げる。
征も軽く杯を合わせ、口にした煎茶の渋みを味わった。
その時、ドアが三度ノックされた。
「どうぞ。」征は顔を上げる。
田中が黒いスーツ姿で入ってきて、無言のままタブレットを大理石のテーブルに滑らせた。
「社長、」田中は軽く頭を下げる。「お調べしました。」