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第三話 品行方正な女性


黒檀のローテーブルに、タブレットの冷たい光が反射している。黒澤征は無言で指をテーブルに軽く叩くと、田中聡が静かにタブレットと封筒を差し出した。


封筒の紐をほどくと、中から二通の履歴書が滑り出る。


黒澤は小野鈴の証明写真に一瞬だけ目を留め、すぐに視線を高橋健太のものへと移す。


ソファの向かい側では、伊藤和也と松本浩が無言で目を合わせる。——写真の女性は、穏やかな表情で、誰にとっても見覚えのない顔だった。


黒澤が女性の身元を調べている?


田中が身を乗り出し、声を抑えて報告する。「高橋健太、福栄不動産の係長です。九州出身で、ご両親は小さな商店を営んでいましたが、今はご隠居されています」


「結婚式は来月の初めに予定されています」


「福栄……?」黒澤は履歴書の高橋の写真に指を滑らせ、低くつぶやく。


「はい。先週、みなとみらい地区の協業提案書を提出してきましたが、まだ秘書課で止まっています」


横浜は黒澤重工の本拠地だ。征は海外出張が多いものの、主要な案件の流れは全て把握している。


半月前、黒澤重工はみなとみらいの中枢となる用地を素早く押さえた。政府の重点開発案件だけに、あらゆる企業の垂涎の的だ。


福栄不動産も地元では名の通った会社だが、黒澤重工の規模から見れば小舟のようなもの。そもそも提案書すら、征の目に届いていなかった。


黒澤は書類の端を指でなぞりながら尋ねる。「福栄の提案、控えはあるか?」


「はい、保存してあります」


「プリントしてくれ」


田中は内線に手を伸ばす。


その間に、黒澤はタブレットを操作し、画面いっぱいに広がるウエディング写真を開く。新郎・高橋の顔を一瞥し、白いベールに包まれた女性に視線を止める。


控えめなメイクが、彼女の柔らかな表情を引き立てている。まとめた髪から伸びる首筋は白くすらりとして、薄手の手袋ごしに真紅のバラを抱え、口元には静かな微笑みが浮かぶ——まるで大切に守られてきた従順さを感じさせた。


黒澤は写真を拡大し、女性の柔らかな唇に指を止めた。「もう入籍は?」


「戸籍には記録がありませんが、信頼できる筋によれば、来月十八日に届け出る予定とのことです」


あと三十七日。


黒澤の口元にかすかな笑みが浮かび、タブレットをテーブルの上に無造作に戻す。


松本は素早くそれを手に取り、証明写真とウエディング写真を見比べ、最後に黒澤の顔を見つめた。「着いたばかりで調査とは珍しいな。お前の趣味にしては変だな?」


「品行方正な女性か……」松本は意味ありげに笑う。「まさか、本気で横取りするつもりか?」


黒澤は顔も上げず、「ダメか?」


松本は言葉に詰まる。「……本気なのか?」


伊藤の表情が一瞬で険しくなり、前のめりに身を乗り出す。「征、美咲のことは——」


「凛が大学の英語講師に目をつけた。昨夜、高橋と揉めていた。調べておく必要がある」黒澤は冷ややかな声で伊藤の言葉を遮る。


「凛が?」松本は眉を吊り上げる。「先月は新人モデルと一緒にいたのに、もう心変わりか? しかも、二十八歳の小野鈴。美咲と同い年だぞ、叔母さんでもおかしくないじゃないか」


黒澤は無言のまま。


そこへ、アシスタントが福栄の提案書を持って入室し、田中がそれを黒澤へ手渡す。


伊藤はその書類を鋭い視線で見つめ、眉をひそめる。「みなとみらいの件と関係が?」


ビジネスの世界は狩場のようなもの。チャンスを掴むために、時に身近な人間をも駒にする光景は伊藤も見慣れている。ましてや、二人はまだ婚約中で、法的な縛りはない。


凛の立場、鈴との師弟関係——まるで仕組まれた罠のようだ。


黒澤は黙ったまま、ゆっくりと企画書のページをめくる。


数ページ目で、突然手を止めた。目線は、プロジェクトチームの欄に釘付けになる。


【プロジェクトマネージャー:高橋健太】


太字で印刷されたその名前が、鋭く紙面に刻まれている。


黒澤は書類を閉じ、履歴書の上に重ねて置いた。


田中に目をやり、落ち着いた口調で告げる。「福栄に連絡して。みなとみらいの件、話を進めていい」


田中の目に一瞬驚きがよぎるが、すぐに表情を引き締め、うなずいた。「かしこまりました、社長」


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