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第四話 獲物が罠にかかる時


あの夜、黒澤征と再会してから三日が過ぎた。


小野鈴の日常は、まるで元のレールに戻ったかのように、講義棟とアパートを行き来するだけの毎日になっていた。


黒澤凛の姿も、それ以来見かけていない。そのおかげで、張り詰めていた神経もようやく緩んできた。


金曜の夜、小野鈴は高橋健太と外食に出かけた。


席に着くや否や、高橋は興奮を抑えきれずに身を乗り出してきた。「鈴、チャンスが来たよ!」声をひそめながらも熱がこもる。「明日の夜、プロジェクトの商談があるんだ。これがうまくいけば、課長に昇進できるかもしれない!」


小野鈴は心から嬉しく思う一方で、不安も隠せなかった。


「うまくいきそう?」


「絶対に成功させる!」


高橋の拳は自然と握りしめられ、瞳には決意が宿っていた。


「もうすぐ結婚するし、家も子どもも……どれもお金がかかるだろ?男として、ちゃんと守らなきゃ。」


その言葉に、鈴の心がじんわりと温かくなる。


高橋の責任感こそ、彼女が一番大事に思っているところだった。「私は信じてるよ。でも、あまり無理しないで。子どものことも、急がなくていいから。」


土曜は高橋が大事な接待に出かけるため、鈴は友人の山本玲と佐藤奈々を誘って映画を観に行くことにした。


映画の後、三人は街角の賑やかな居酒屋に入り、湯気の立つ鍋を囲みながら笑い合っていた。そのとき、不意に鈴のスマホが震えた。


高橋からだった。


「鈴……」電話越しの声はかすれて聞き取りにくく、バックには騒がしい音楽と人のざわめき。「今、銀座のクラブ『左岸』……三階にいる……迎えに来て……」語尾はぼやけていた。


「わかった、すぐ行くから、動かないで待ってて!」鈴はすぐに立ち上がり、コートを手に取った。


昨夜、高橋は「この飲み会に全てを賭ける」と言っていた。こんなに酔っているとなれば、放ってはおけない。


山本と佐藤に「先に楽しんでて」とだけ伝え、鈴は急いで夜の街へと駆け出した。


銀座クラブ『左岸』三階。


クリスタルのシャンデリアの灯りが、葉巻の煙にぼんやりと霞んでいる。


高橋は電話を切ったばかりだった。隣の営業部長が茶化すように笑いながら言った。「高橋君は幸せ者だね。こんなに酔っ払っても迎えに来てくれる人がいるなんて。こんないい子はなかなか見つからないよ。」


高橋はレザーソファにもたれ、朦朧とした目で口元を緩めた。


「……本当に、俺は幸せ者です。」


そのとき、金属のような冷ややかさを帯びた小さな嘲笑が、ふいに空気を切り裂いた。


賑やかだった個室が、一瞬で静まり返る。


皆の視線が、自然と主賓席の男へと集まった。


彼はソファに深く腰掛け、指先で煙草を弄ぶ。表情には特に感情が浮かばないが、その存在だけで空気が重くなる。


「社長?」誰かが恐る恐る声をかけた。


黒澤征は返事をせず、高橋の酔い顔を一瞥し、唇の端に微かな笑みを浮かべた。「高橋係長、たしかにお幸せですね。」


高橋は数秒遅れて、それが褒め言葉だと気づき、慌てて頭を下げた。「あ、ありがとうございます、社長……」


「ずいぶん酔っているようだな。」黒澤はその言葉を遮り、淡々とした口調で命じた。「高橋係長を客室に案内して、休ませてあげなさい。」


彼が小さく顎を動かすと、すぐにスタッフが駆け寄り、足元のおぼつかない高橋を支えて外へ連れ出した。


高橋はふらつきながら、ポケットからスマホを落とし、それがカーペットの上を転がって、偶然にも黒澤の足元で止まった。


黒澤は目を伏せて、スマホを拾い上げる。画面には先ほどの通話画面がまだ残っていた。


履歴には「婚約者」の文字。


指先がその表示の上で一瞬止まる。


画面の冷たい光が、彼の瞳に微かな皮肉を映し出す。


画面を閉じかけたそのとき、新しいLINEメッセージが届いた。


表示には「家内」の文字。


家内:『もうすぐ着くよ。三階のどの部屋?』


黒澤の視線がその文面をなぞり、指先がゆっくりと動く。


無駄のない動作で、返信欄に「A315」とだけ入力し、送信をタップする。


すぐさま、送信履歴を削除。親指でロックスクリーンにして、何事もなかったようにスマホをテーブルに放り投げる。乾いた音が響いた。


黒澤はそのまま立ち上がり、扉を開けて外に出ていく。室内には、沈黙したままの人々だけが残された。


廊下の冷たい光が、彼の背中に伸び、ドアの隙間から漏れる温かな喧騒をあっという間に飲み込んでいった。


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