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第五話 俺の許可を取ったのか


銀座のクラブ「左岸」三階の廊下には、厚いカーペットが敷き詰められている。ハイヒールで歩いても、ほとんど音がしない。


小野鈴はA315号室の前で立ち止まり、高橋健太から送られてきたメッセージで部屋番号をもう一度確認した。指先が少し冷たくなりながら、彼女は意を決して重い木製の引き戸をノックした。


「健太?迎えに来たよ。」


その声は静かな廊下に溶け込むように、かすかに響いた。


扉が少しだけ開き、暖かい黄色の光が漏れ出した。


小野鈴が顔を上げた瞬間、呼びかけの続きを飲み込んだ。


扉の向こうに現れたのは、冷たく鋭い表情をした黒澤征だった。その存在感に一瞬で息が詰まる。


身体が本能的に反応し、小野鈴は後ずさりしようとしたが、カーペットの端で踵を取られ、バランスを崩した。


だが、逃げる間もなく、強い力が彼女の手首をつかみ、そのまま強引に室内へと引き込まれた。


背後で扉が重く閉まる。外の世界から切り離され、背中が冷たい扉にぶつかった。黒澤征の大きな体が覆いかぶさるように迫り、空気が薄くなったように感じた。


彼はあまりにも近い。胸が鈴の胸元に触れそうな距離で、彼女は扉と彼の間に閉じ込められ、身動きできない。


混乱する中、右手が無理やり引き上げられ、二人の間に掲げられる。


黒澤征の目線が、彼女の薬指にある指輪に落ちる。


薄暗い光の下、小さなダイヤの婚約指輪がかすかに輝いた。


鈴は思わず唇を噛みしめ、手を引こうとしたが、無駄だった。


黒澤征の指が、わざとらしいほどゆっくりと、しかしどこか冒涜的な仕草でリングをなぞる。


低く短い笑い声が鼻から漏れた。まるで氷が砕けるような音。


「結婚するのか?」


全てを見透かしたような皮肉な口調だった。


なぜ彼がそこまで気にするのか、鈴には分からない。


ただ、この男の前では逃げれば逃げるほど、より深い危険に足を踏み入れてしまうことだけは理解していた。


「……うん。」

か細い声で答えた。


また笑い声が響く。冷たく、短い。


次の瞬間、彼は彼女の薬指を強くつまみ、指輪を指からすっと抜き取った。


鈴の瞳孔が大きく開き、喉が詰まりそうになる。


黒澤征はその小さな指輪を指先で弄ぶ。


冷たいプラチナが長い指の間で鈍く光る。


彼は顔を上げ、怯える彼女の瞳をじっと見つめ、唇の端に皮肉げな笑みを浮かべながら、ゆっくりと訊ねた。


「まっとうな人生を歩みたいなら、俺の許可を取ったのか?」


心臓を誰かに強く握られたような衝撃に襲われ、鈴の頭の中が真っ白になる。


その言葉は毒針のように、必死に保っていた平静を打ち砕いた。


清算も、綺麗な別れも、もう何も残っていない――そう思っていた。彼の周りにはいつも人がいるのだから、もう関係ないはずなのに……。


「鈴。」


冷たく澄んだ声が、彼女の名前をはっきりと呼ぶ。


この名前の呼び方だけで、封じ込めていた記憶が一気に蘇る。混乱と熱、恥ずかしさと苦しさが、胸の奥から溢れ出す。


鈴は呼吸を止め、爪を手のひらに食い込ませた。


冷たい指が突然顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。


ごつごつとした指が、きつく引き締めた唇をゆっくりなぞる。


黒澤征は見下ろしながら、まるで値踏みするような目で彼女を眺め、何気ない口調で言った。


「最近、俺の周りには誰もいない。どうだ、また俺の相手でもするか?」


屈辱感が冷たい波のように鈴を飲み込む。


彼女がもうすぐ他の男の妻になることを知っていながら、まるで玩具を選ぶような口ぶりで。


最初から、彼女の尊厳など眼中になかったのだ。


「黒澤さん……」

鈴は必死に声を出した。震えを隠せないが、それでも言う。


「私なんか、黒澤さんにはふさわしくない人間です。」


自分を卑下して、相手を持ち上げる。それが唯一の、彼に興味を失わせるための策だった。こういう男は、誰もが頭を下げることに慣れているはずだから。


その言葉が効いたのか、黒澤征は小さく笑い、彼女の顎から手を離し、半歩だけ後ろに下がった。


圧迫感が少し和らいでも、鈴は気を緩めることができない。


その場に固まり、警戒心を隠せずに彼を見つめる。


黒澤征は、そんな彼女の無理な平静と恐れが入り混じった表情に、どこか満足したように目を細めた。


じっと見つめる視線には、余韻に浸るような色が宿っている。


「冗談だよ。」

軽い口調で言う。さっきまでの威圧感が嘘のようだ。


「怖がったか?」


鈴はぎこちなく首を振る。「……いえ。」


黒澤征は目線を落とし、彼女の左手を顎で指し示した。「手を出せ。」


黒澤征の指に挟まれた指輪を見て、一瞬ためらったが、鈴は素直に手を差し出した。


彼の温かくて乾いた大きな手が、彼女の冷たい指を包みこむ。もう一方の手で、指輪を薬指に元通りにはめた。リングが指の根元にきつく戻る。


すぐに手を離さず、そのままダイヤを見つめ、少しだけ批判的な声で言った。


「この指輪、あまりセンスがいいとは言えないな。」


鈴は目を伏せ、従順に応じる。「……そうですね。」


黒澤征はようやく手を離した。


「結婚はいつだ?」

と、何気なく尋ねる。「何か贈り物でもしようか。」


黒澤征が部屋を出た後、鈴はしばらく冷たい扉にもたれ、激しく息をついた。しばらくして、ようやく足に力が戻る。


高ぶる感情を必死で抑え、彼女は息苦しいその部屋を後にして、高橋健太を探しに歩き始めた。


廊下で高橋健太の同僚に出会い、彼が上の客室にいると教えてもらう。


スタッフの助けも借り、鈴はようやく酔いつぶれた高橋健太を部屋から連れ出した。


彼はなんとか自分で歩けるが、ほとんどの体重を鈴に預けていた。


ふたりはふらふらと会場の出口までたどり着く。夜風がひんやりと頬を撫でる。


鈴は健太を支えながら、スマートフォンでタクシーを呼ぼうとした。


その時、黒くて無機質なアルファードが音もなく彼らの前に止まった。


後部座席の濃いスモークガラスがゆっくり下がる。


黒澤征の端正な横顔が、再び鈴の視界に現れる。


心臓が大きく脈打ち、指先が冷たくなり、手のひらがじっとりと汗ばんだ。


「社長!」


隣の高橋健太は、まるで救い主を見つけたかのように、酔いもあって大声で手を振る。


「まだいらっしゃったんですね!」


黒澤征は一瞬だけ健太に視線を送り、すぐに鈴の青ざめた顔に目を留め、ほとんど表情を変えずに小さく頷いた。


「タクシー待ちか?よかったら、乗っていかないか。」


鈴は思わず健太の袖を引き止めようとした。


だが、健太は先に返事をしてしまった。嬉しそうに、何度も頭を下げながら、


「うわぁ、社長、ありがとうございます!お世話になります!」


ドアを開けようとする。


鈴は手をぎゅっと握りしめ、爪がさらに深く手のひらに食い込んだ。


夜の闇に沈むアルファードの後部座席は、静かに広がる罠のように見えた。


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