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第六話 お茶でもどう?


黒のアルファードが静かに夜の街へと滑り込んでいく。


小野鈴と高橋健太は、最後列の席に座ることになった。


黒澤征は斜め前に座っている。その冷ややかな存在感は、視線を向けなくても鈴の視界の端にしっかりと居座り、重たい鉛のように胸を押し潰していた。


「高橋、住所を。」前席から黒澤の冷たい声が落ちる。


高橋健太は急いで体を起こし、マンションの名前を伝えた。「柏ヶ丘ハイツです。社長、お手数ですが。」


「問題ない。」黒澤がそっけなく返し、田中に合図を送る。


エンジンの低い唸りとともに、車がゆっくりと動き出した。


小野鈴は背筋を伸ばしたまま、固くシートに身を預けている。呼吸一つさえも慎重にコントロールし、この密閉された空間の緊張感を乱さぬよう、気を張り詰めていた。


そんな中、高橋健太はすっかり酔いが回り、突然体の力が抜けて鈴の方へ崩れ落ちてきた。がっしりした腕で彼女を抱き寄せ、そのまま頭を彼女の胸元に預けてしまう。


予想もしなかった密着に、鈴は体を強張らせた。


その気配に気づいたのか、前の席にいた黒澤がわずかに振り向き、鋭い視線を鈴に投げかけてきた。


思わずその目とぶつかってしまい、頭の皮膚がビリビリとしびれる。まるで現場を押さえられたような居たたまれなさに、心臓が早鐘を打つ。


鈴は慌てて目を伏せ、高橋の肩をそっと押しやりながら、小さな声で呼びかけた。「健太、起きて……」


「重かったか?」高橋はまどろみながら目を開け、無意識に鈴の頬を撫でる。「ごめん……痛くなかった?」


「……ううん、平気。」鈴は乾いた声で首を振った。


黒澤はすでに顔を前に戻しているが、その唇の端にはほとんど気づかれないほどの微かな笑みが浮かんでいた。


――この緊張した時の挙動や、平静を装う必死さは、昔とまるで変わらない。


……


二十数分の道のりは、まるで茨の上を這うように長く感じられた。


ようやく柏ヶ丘ハイツの見慣れた門が見えてきた瞬間、鈴の張り詰めていた神経がようやく緩みかけた。


しかし、運転席の田中が声をかける。「高橋さん、中まで送りましょうか?」


鈴の心臓が跳ね上がる。思わず「大丈夫です」と言いかけたが――


高橋が先に口を開いた。酔いの勢いと、黒澤に認められたい一心で、「社長!ここまで来たんですし、お茶でも飲んで行きませんか?酔いも覚めると思いますし!」と誘ってしまう。プロジェクトの交渉はまだ決着していない。黒澤の今夜の態度も曖昧だ。こんなチャンス、滅多にない。


鈴は唇をきゅっと引き結んだ。


黒澤はまたこちらを向き、鈴の固く結ばれた唇をしっかりと見据える。口元の笑みがほんの少し深くなった。「ちょうど喉も渇いていたし、お邪魔しよう。」


その一言は、有無を言わせぬ宣告のように響いた。


鈴の心は一気に冷え込み、拳を握りしめる。爪が手のひらに深く食い込み、冷たい汗にじむ。押し寄せる不安は、氷のように冷たかったが、彼女には拒むことはできなかった。


……


五分後、黒澤は高橋と鈴の住むマンションのリビングにいた。アイボリーのソファにゆったりと腰を下ろしている。


「社長、お茶は何がいいですか?鈴の淹れる煎茶は本当に美味しいですよ!」高橋は浮かれたように世話を焼く。


黒澤の視線は、玄関のハンガーそばで高橋の上着を整えている鈴の細い背中を、ちらりと眺めた。


視線を戻し、皮肉めいた口調で言う。「吉田専務の言う通り、高橋は本当にいい人を見つけたな。」


高橋は調子に乗って、「そうなんですよ、幸せすぎて夢みたいです!」と応じる。


「いや、煎茶は結構。冷たい水をいただければ。」黒澤は高橋のさらなるアピールをさえぎった。


「すぐ用意します。」鈴は緊張を隠しきれない声で答え、キッチンへと駆け込んだ。


……


冷蔵庫から吹き出す冷気に、鈴は思わず金属の縁をぎゅっと掴む。息を荒くしながら、冷たい空気をむさぼるように吸い込んだ。


恐怖が心を締め付ける。黒澤の存在自体が、彼女にとっては爆弾のようなもの。いつ爆発するか分からない導火線は、彼の手の中にある。


彼が現れるたび、過去をえぐられる。そして、黒澤の本心はまったく読めない。この先何をされるのか――その分からなさが、宣告よりも苦しかった。


冷蔵庫の前で何分も立ち尽くした末、ようやくミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。冷たく結露した瓶が指先を刺す。


リビングへ戻ると、そこには黒澤しかいなかった。高橋の姿は消えている。黒澤はスマートフォンを見つめ、鈴に気づいていないようだった。


息を殺して、静かにテーブルへ水を置く。


「社長、水を……」


言い終わらぬうちに、強い力が手首をつかみ、後ろへと強引に引き寄せられる!


バランスを崩した鈴は声も出せず、勢いのまま黒澤の膝の上に倒れ込んだ。


熱い鉄板に触れたかのように、慌てて逃げ出そうとするが、もう一方の手で腰をがっちり押さえ込まれる。


恐怖に目を見開いた鈴の手は、必死に彼の胸を押し返すが、黒澤は微動だにしない。


その瞳は冷たく、すべてを見透かすような静けさがあった。


彼は少し顔を寄せ、鈴の色の失せた唇に熱い息を吹きかけながら、低い声で囁く。


「怖いか?」


鈴は小さく頷いた。


黒澤はくすっと笑い、手を後頭部に添えると、そのまま鈴の唇に口づけた。


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