黒澤征の唇が重なった瞬間、小野鈴の思考は一瞬で止まり、まるで真空に落ちたようだった。
一瞬の混乱の後、彼女は反射的に身をよじり、思いきり彼の舌を噛んだ。
血の味が交じる中、黒澤征はようやく彼女を解放したが、手のひらはまだ彼女の腰をしっかりと抱き寄せたままだった。シャツ越しに伝わる彼の体温が、鈴の背筋を熱くさせる。
「噛みつくなんてな。」黒澤征の声は落ち着いていて、感情を読み取れなかった。
鈴は彼の目を見つめながら、震える声で低く言った。「さっき、はっきり話したでしょう、黒澤さん。あなた、もうしないって……」
「ただのキスだろう?」黒澤征は指先で彼女の唇から鎖骨へ、そして胸元に触れた。「俺たち、今まで何でもしてきたじゃないか。」
思わず胸を揉まれ、鈴はあわてて彼の手首を押さえた。「黒澤さん、やめてください!……あれは昔のこと。私はもうすぐ結婚するの。」
玄関の鍵が開く小さな音が静寂を破った。
鈴の頭の中で警告音が鳴り響き、どこからそんな力が出たのか、彼女は黒澤征を振りほどいてすぐに距離を取った。
高橋健太が千鳥足で近づき、酔いながら黒澤征に謝った。「お待たせしてすみません、社長……」
「気にしないで。」黒澤征は冷たい水を一口飲み、「もう帰るよ。高橋係長はゆっくり休みなさい。」
「いえ、私が送ります。」
「大丈夫だよ、もう遅いし、君は早く休んだほうがいい。」
そう言われても、高橋健太は気を抜けず、鈴に向かって笑いながら言った。「鈴、社長をお見送りしてくれる?」
「……はい。」
黒澤征は鈴を横目で見て、「悪いね。」
……
鈴は黒澤征の後ろについてエレベーターに乗った。
ボタンを押して、目はただ金属の扉を見つめている。
扉が閉まる前に、背後から肩を抱き寄せられた。
黒澤征は彼女の顎をつかみ、耳元で囁いた。「小野先生は本当に良妻だな。」
皮肉ともとれる言い方だった。
鈴はその意味が分かっていた。彼は、送る気などなかったのに高橋健太の頼みを断れなかった自分を、嘲っているのだ。
それが鈴の性分で、高橋健太の前では決して逆らうことはできない。
ましてや、高橋健太は二人の過去を知らない——
「彼、君の昔のこと知らないんだろ?」黒澤征の唇が彼女の耳をかすめる。「最初の相手が誰か、ちゃんと説明したことある?」
「小野先生、俺から彼に、君を満足させる方法でも教えてやろうか?」
普段は温厚な鈴も、今だけは黒澤征につい手が出そうになった。
指が白くなるほど力を入れた時、エレベーターの到着音が響き、救われた。
エントランスまで黒澤征を見送り、鈴はうつむいて言った。「お帰り、お気をつけて。」
「そんなに怖がるな。今度会う時、あからさまな反応をするなよ。そうしないと、彼にも怪しまれる。」
部屋に戻るときも、鈴の指先はまだ冷たかった。
さっき黒澤征に言われたことが頭の中で何度も繰り返され、鈴はますます混乱していった。
黒澤征は一体、何のためにこんなふうにからかうのか。最近退屈しているのか、それとも——
高橋健太の声が、鈴の思考を現実に引き戻した。
「鈴。」高橋健太が後ろから抱きしめ、酒の匂いと体温が包み込む。「今夜は帰らないで。」
「うん、私は客間で寝るから。」鈴は彼の意図をわざと分からないふりをした。
いつもならすぐに手を離す高橋健太も、今夜は酔っているせいか、鈴を離さなかった。「もうすぐ入籍だ。鈴。」
つまり、もう我慢したくないということだ。
さっきエレベーターで黒澤征に言われた言葉が鈴の耳に蘇り、胸が締めつけられる。
高橋健太は、彼女が「初めて」だと言ってある。もちろん、彼は鈴に経験があるとは思っていない。もし気づかれたら——
考えているうちに、高橋健太は鈴を抱き上げて寝室へ連れて行った。
ベッドに横たえられ、彼が覆いかぶさると、鈴は急に下腹部に熱を感じた——
「健太、待って……」彼女は高橋健太の胸を押しとどめた。「生理が来たみたい。」
高橋健太は手を止め、諦めたように微笑んだ。「前に買ったナプキン、洗面台の下にあるから。」
「うん、分かった。」
「俺は外のバスルームでシャワー浴びるから、君はここで。」
彼が部屋を出ていく足音を聞きながら、鈴は大きく息を吐き、背中を壁に預けて静かに座り込んだ。
初めて、生理がこんなにありがたいと思った。
今回は偶然助かったけど、次はどうなるのか。
もうすぐ入籍する、この日が来るのは避けられない。
何か方法を考えなければ——。